荻町城(おぎまち)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 山下氏か
 遺構  : 曲輪、堀、土塁、虎口
 交通  : 荻町集落白水園角からシャトルバスに乗り、
      「城山展望台」下車


       <沿革>
           内ヶ島氏の家老山下氏の居城とされるが、築城の経緯は定かでない。16世紀後半の
          当主山下時慶は内ヶ島氏の娘を娶ったとされる。
           天正十三年(1585)に羽柴秀吉の命を受けた金森長近が飛騨へ攻め入ると、内ヶ島
          氏理は姉小路氏とともにこれに抗したが、家臣の内応により居城の帰雲城を奪われた
          ため降伏した。このとき、荻町城で戦いがあったかどうかは定かでない。
           同年の十一月二十九日、所領安堵を祝う宴を前に天正地震が発生し、内ヶ島一族や
          多くの家臣が山体崩落に巻き込まれて帰雲城ごと土中に消えてしまった。理由は不明
          だが、時慶とその子氏勝は難を逃れている。しかし、これにより内ヶ島家は滅び、氏勝
          は秀吉に仕えることとなった。これにより、荻町城も廃城となったものとみられる。
           ちなみに氏勝は、徳川家康の側室で徳川義直の生母である相応院の妹を正室として
          いたことから、後に徳川家に出仕して義直の傳役となった。義直に尾張一国が与えられ
          た際、清洲城から名古屋城への移転(清洲越し)を提案したのは氏勝とされる。


       <手記>
           荻町城跡からの眺めは、世界遺産の合掌造り集落を見渡す有名な景観として、まず
          知らない人はいないのではないでしょうか。一般の車のみならず観光バスなどもやって
          来るようで、訪問者数という意味では全国トップレベルの中世城館跡といえるでしょう。
          とはいえ、99.9%以上の人のお目当ては白川郷の景色で、城跡であることに気づかない
          人も多いことでしょう。
           ただし、展望台として破壊されているということはなく、遺構の残存状況はむしろ良好
          です。駐車場に車を止めてすぐ目の前に、規模の大きな堀切と土塁が現れます。その
          南端は土橋となって城内に通じており、搦手とされています。土塁も郭内側に90度折れ
          ていて、虎口としての工夫も見られます。
           城内は単郭で、集落側に面した南西隅には櫓台状の土塁があります。搦手と反対側
          の北西隅にも虎口があり、ここから麓に下りる道が大手とされています。
           荻町城について、『岐阜の山城 ベスト50を歩く』では規模の小ささを指摘し、「臨時性
          の強い特異な城郭」との見解を示しています。たしかに単郭で面積も大きくありません
          が、白川郷の狭隘さを鑑みれば、むしろこれくらいで十分ではないかというのが、私の
          感想です。これより大きい城を築いたところで、今度は守り切れるだけの兵を確保する
          のが難しいように思います。そもそも白川郷で攻城戦になること自体が、臨時的な状況
          といえるのではないでしょうか。

           
 堀切と土塁。
搦手口から城内を望む。 
 搦手虎口のようす。
城址標柱。 
 郭内のようす。
櫓台状土塁。 
 北西隅の大手虎口。
城山展望台より、おなじみの景色。 
 おまけ:雨後の白川郷。


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