青鳥城(おおどり)
 別称  : 石橋城
 分類  : 平城
 築城者: 藤原利行か
 遺構  : 土塁、堀、虎口
 交通  : 東武東上線森林公園駅徒歩20分


       <沿革>
           『新編武蔵国風土記稿』に、「相伝ふ往昔青鳥判官藤原恒儀と云人住せし」とある。
          ただし、恒儀については同書に天長六年(829)卒とあることから、この伝承については
          信じがたい。
           寿永二年(1183)に源頼朝が青鳥野に陣を布いたことが『源平盛衰記』に記述されて
          おり、現地説明版ではこれをもって築城時期としている。しかし、布陣したというだけで
          築城に充てるのは無理があり、また『盛衰記』自体江戸時代に成立した読み物のため、
          正確性の面からも疑問の余地がある。
           『妙昌寺縁起』によれば、建武元年(1334)には青鳥城主として藤原斎心入道利行が
          あったとされ、また時期は不明だが石橋城主として芹沢修理大夫の名も記されている。
          これらの記述が正しければ、鎌倉幕府滅亡前後頃には、両者のどちらかによって城が
          築かれていたものと推測される。
           永享十二年(1440)の結城合戦に際し、関東管領上杉憲実が唐子・野本に陣取った
          ことが、『鎌倉大草紙』などにみえる。前述のとおり、このときすでに青鳥城が存在して
          いたとすれば、唐子と野本の間にあるこの城が陣に使われなかったとは考えにくい。
          『日本城郭大系』では、青鳥城の広大な外郭はこのときに整備されたのではないかと
          する見解を示している。
           後北条氏時代には、松山城主上田氏家臣山田伊賀守直安が青鳥城主だったと伝え
          られるが、確証はない。直安は、天正十八年(1590)の小田原の役で北条氏が滅びる
          と、関東に入国した徳川家康に仕え、300石を与えられた(『寛政重修諸家譜』)。
           他方で、永禄二年(1559)編纂の『小田原衆所領役帳』には、狩野介が青鳥に40貫
          を、久米新左衛門が石橋に45貫を知行していたとある。直安以前には両者のどちらか
          が青鳥に居を構えていたとも考えられるが、そもそも後北条氏時代まで青鳥城が存続
          していたとする証拠はない。
           ちなみに、市教委設置の現地説明板では、「青鳥」の読みは「おおどり」となっている
          が、『大系』では「あおどり」となっている。ただ、五十音順の『大系』でも「足利基氏館」
          の次に掲載されているため、単なる誤記と思われる。


       <手記>
           青鳥城は都幾川の河岸に築かれた城で、松山城と菅谷館のちょうど中間に位置して
          います。県の史跡に指定されており、本丸の下から関越道をくぐって北上する道路脇に
          説明板が設置されています。
           方形の主郭は畑地となっていて、三方を囲む堀と土塁がほぼ完存しています。虎口
          と思われる切れ込みが東辺の土塁中央にありますが、その外側は堀となっているので、
          かつては木橋が架けられていたものと推測されます。
           主郭の外側には広大な惣郭状の二の丸があります。二の丸の土塁と堀も、部分的に
          良好に残されており、とくに市指定史跡である青鳥城跡板石塔婆の裏のものは、規模
          が大きく見応えがあります。
           関越道の東側の、現在虎御石として地図などに示されている溜池は、二の丸東辺の
          水堀跡とみられています。溜池の東は墓地となっているのですが、その河岸側に沿って
          土塁状の地形が伸びています。市教委ではこれを三の郭の土塁とみているようですが、
          二の郭を囲う三の郭が存在したとすれば、あまりにも規模壮大な城となってしまいます。
          ですので、三の郭があったとしても、おそらく出丸のようなものだったろうと推測されます。
           青鳥城の特徴は、方形の土居構のような本丸の外側に、だだっ広い巨大な二の丸が
          巡っているという縄張り上のアンバランスにあるといえます。この点は、現地の市教委の
          説明板にもあるとおり、おそらく当初は本丸のみが在地領主の居館として築かれ、後に
          軍勢の駐屯用の陣城として二の郭が拡張整備されたのだろうと考えられます。
           そうなると、青鳥城が陣城として使う理由のなくなった北条氏の進出以降まで存続して
          いたかどうかについては、再考の必要性があろうかと思われます。
           最後に注意点ですが、今日青鳥城を訪れるにあたっての最大の留意点は、城跡周辺
          に立ちこめる家畜の臭いです。どうも二の丸の西三分の一ほどが鶏舎となっているよう
          なのですが、ここから流れる臭いは猛烈です。城跡めぐりをしていれば、牛や豚など家畜
          の臭いに触れる機会は多いのでかなり慣れてはいる方だと思うのですが、その私の鼻
          をもってしてもここの臭いはかなり強力です。訪れる際には覚悟して臨んで下さい。

           
 主郭の城址碑。
主郭のようす。 
 
 主郭東辺の虎口跡。
主郭の土塁。 
 主郭南辺。土塁跡か。
主郭西辺の堀。 
 主郭北辺の堀。
青鳥城跡板石塔婆と二の郭の土塁。 
 二の郭の土塁と堀。
二の郭東辺の水堀跡とされる溜池。 
 溜池東側の土塁状地形。
 三の郭の遺構か。


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