菅谷館(すがや)
 別称  : 菅谷城
 分類  : 平城
 築城者: 畠山重忠
 遺構  : 曲輪、土塁、堀、虎口、土橋
 交通  :東武東上線武蔵嵐山駅徒歩15分


       <沿革>
           元久二年(1205)、いわゆる畠山重忠の乱に際し、北条時政とその後妻牧の方の讒言
          により謀叛の疑いをかけられた重忠は、「小衾郡菅屋館」を出発して鎌倉へ向かったと、
          『吾妻鏡』に記されている。これが、菅谷館が史料に登場する最初のものである。重忠は
          父重能の築いた畠山館で生まれたとされることから、菅谷館は一般に重忠によって築か
          れたものと考えられている。重忠は相模国二俣川で討ち取られ(二俣川の戦い)、平姓
          畠山氏は滅亡した。その遺領は恩賞として分け与えられたが、菅谷一帯を誰が相続した
          かについては定かでない。
           その後、菅谷館についての消息はしばらく途絶える。長享二年(1488)には、長享の乱
          にともなう須賀谷原の戦いが、山内上杉氏と扇谷上杉氏の間で行われた。戦いの最中、
          万里集九が山内上杉氏の武将太田資康の陣を訪ねているが、そのときに詠まれた漢詩
          によれば、資康は明王堂に布陣していたとされる(『梅花無尽蔵』)。明王堂とは、菅谷館
          北西にある平沢寺を指すとされる。この戦いの時点において菅谷館が使用されていたか
          どうかは確証がなく、賛否両論定まっていない。明応三年(1494)に資康は扇谷上杉氏
          に出仕したが(資康の父は扇谷上杉定正に誅された)、菅谷館は資康によって再興され
          たとする説もある。
           『日本城郭大系』によれば、『東路土産』に太田氏が岩付城に移った後、小泉掃部助が
          居城としたとあるとされる。『東路土産』とは、宗長の『東路の津登』のことと類推されるが、
          同書は永正六年(1509)の旅の内容を綴ったものとされる。したがって、後北条氏が進出
          して以降も継続使用されたかについては、史料上は詳らかでない。


       <手記>
           菅谷館は、都幾川が源流の山間部を抜けて平野部に出たところの河岸上に築かれて
          います。東西はその支脈の沢谷戸となっていて、舌状とまではいえないですが、三方を
          斜面と水に囲まれています。
           保存状態はきわめて良好で、昭和四十八年という比較的早い段階で国の史跡指定を
          受けています。近年、近隣の松山城跡杉山城跡小倉城跡と併せて「比企城館跡群」
          として指定し直されました。城内三ノ郭跡には埼玉県立嵐山史跡の博物館が建設され
          ていますが、それでも驚くほど旧状をよく留めています。
           菅谷館の特徴は、史料に乏しい中世城館としては異例というほどの巧妙な縄張りに
          あります。「己」字のように、あるいはとぐろを巻いた龍のように曲輪が配置され、地続き
          では迂回を繰り返さなければ、本丸まで到達できないようになっています。他方で城兵
          は、適宜堀を跨いで橋を架け、攻め手の側面をあっちこっちと突いて撃退するという戦術
          構想であったものと思われ、とくに三ノ郭にはそのための起点として設けられたと思われ
          る張り出し部が2ヶ所認められます。
           さて、菅谷館の北には同じく史跡「比企城館跡群」を構成する杉山城があります。両者
          とも高度な縄張りをもつ規模の大きな城跡であり、そのことを根拠としてどちらも北条氏
          によって完成されたものとする意見が強くみられます。最終的な改修者を北条氏とみる
          ことについては、私もとくに異論はありませんが、少なくとも縄張りの大枠を作ったのは、
          杉山城については山内上杉氏、菅谷館については扇谷上杉氏(太田氏)であると考えて
          います。
           杉山城の築城者を巡る論争は、俗に「杉山城問題」と呼ばれることもあるそうで、これに
          ついては別項で私見を述べさせていただいているので、ご参照いただければと思います。
          端的にいえば、杉山城には山内上杉氏の縄張りの特徴がよく表れているというもので、
          縄張りが技巧的である=北条氏の築城という短絡的な見方には警鐘を鳴らすものです。
           菅谷館についても、先述の通りとても複雑な縄張りを擁していますが、反面虎口が基本
          的に総じて平入りであるなど、成熟期の北条氏の技術面からみると不自然な点があり、
          まして杉山城とは大きく異なっています。
           他方、菅谷館と縄張りが似ているように思われるのが、河越城や松山城です。どちらも
          戦国末期まで存続した城ですので、今に伝わる縄張りをそのまま扇谷上杉氏時代のもの
          とみることはできませんが、三者とも堀で四周を囲んだ曲輪を並べてそれぞれの独立性を
          高め、曲輪間の移動は土橋などに絞っている一方、虎口にはあまり工夫がみられないと
          といった共通点が見受けられます。一言でいうと、上から見た牡丹の花のような縄張りが
          特徴といえます。
           菅谷館を再興したのが太田資康であるとすれば、河越城を築いた父道灌のスタイルを
          受け継いでいたとしても、不思議ではありません。あるいはもしかしたら、文明八年(1467)
          の長尾景春の乱のあたりで、道灌自身が拠点として取り立てたものではないか、とする
          推測すらはたらいてしまいます。
           逆に、北条氏の勢力が伸長し、とくに鉢形城と松山城を手に入れた後では、両者の間
          にある杉山城と菅谷館の戦略的価値はほとんどなくなります。したがって、発掘調査の
          結果や史料上からも北条氏の痕跡が認められないこともあり、鉢形の藤田氏が降伏し、
          北条氏邦が同氏に入嗣したころまでには、両城とも打ち捨てられたのではないかと推測
          しています。
           最後に、現在の遺構の下に埋まっていると思われる畠山氏の菅谷館についてですが、
          こちらについても、私は畠山重忠ではなく、その父重能が築いたと考えています。菅谷館
          の対岸南方には大蔵館があり、館主源義賢は久寿二年(1155)の大蔵合戦で源義平ら
          に討ち取られています。このとき義平側で参戦したのが重能でした。したがって、戦後に
          義賢方の旧領は戦勝者の間で分割され、重能はこのとき菅谷周辺を獲得して館を築いた
          という推測が成り立つと思うのです。

           
 二ノ郭の石碑。
 奥に本郭の虎口が見えます。
本郭北辺の堀。 
 
 本郭内部のようす。
本郭の張り出し部。 
 本郭南辺の堀。
二ノ郭南辺の土塁。 
 三ノ郭の井戸跡および建物礎石跡の地表復元面。
三ノ郭の張り出し部その1。 
ニノ郭からの反撃路か。 
 三ノ郭の張り出し部その2。
三ノ郭から四ノ郭への堀と推定復元木橋。 
 三ノ郭虎口先の蔀土塁。
三ノ郭外側の外郭土塁と堀。 


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