大嶽砦(おおづく)
 別称  : 大嶽城
 分類  : 山城
 築城者: 浅井亮政か
 遺構  : 曲輪跡、土塁、堀
 交通  : JR北陸本線河毛駅よりバス
       「小谷城址入口」バス停下車徒歩30分


       <沿革>
           小谷城のある小谷山山頂に築かれた城砦である。広義の小谷城に含まれる支砦であるが、
          独立性が高く、大嶽砦落城後も小谷城は単体でしばらくもちこたえているため、ここでは個別の
          城砦として扱う。
           小谷城は、浅井亮政によって大永五年(1525)までに築かれたとみられているが、亮政時代
          の小谷城は大嶽にあったとする説がある。天文年間(1532〜55)の六角氏の文書に「大嶽」と
          いう呼称がみられることが論拠とされ、また『朝倉宗滴話記』には、宗滴が大永五年に援軍と
          して訪れた際の記述として、「大谷 七月十六日城責有之」とあり、「大谷」が「大嶽」と同義で
          ある可能性も指摘できる。しかし、それ以上の証拠はなく、推測の域を出ない。
           元亀元年(1570)、姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍が織田・徳川連合軍に敗れると、小谷城
          は対信長戦の前線拠点となった。このため、朝倉義景の援軍がしばしば小谷に駐屯するように
          なり、一般には、大嶽砦はこの流れのなかで朝倉勢によって築かれたものと考えられている。
           天正元年(1573)八月、山本山城主阿閉貞征が信長に降伏すると、織田軍は小谷城背後へ
          と回り、北国街道を封鎖して越前との連絡を絶った。これを見た大嶽砦北西の焼尾の砦の守将
          浅見対馬守も、信長に降伏した。八月十二日、織田軍は嵐に乗じて対馬守の案内で大嶽砦を
          急襲し、砦を守っていた朝倉勢は敗走した。翌日には、小谷城救援は不可能と判断し、撤兵を
          図った義景を信長勢が追撃し、そのまま朝倉氏を滅亡に追い込んだ。小谷城も、同月二十九日
          ないし九月一日に落城し、浅井氏も滅亡した。
           小谷城は羽柴秀吉に与えられたが、秀吉は同城を廃し、長浜城を築いて移ったため、大嶽砦
          もそのまま打ち捨てられたものと推測される。


       <手記>
           大嶽砦は小谷山山頂にあり、小谷城址は南東の支尾根上に位置しています。大嶽砦までは
          麓から登山道が整備されており、小谷城址ないし福寿丸・山崎丸回りで登ることができます。
           城跡には標柱や説明板が設置されており、竹生島方面のみ樹木も伐採され、眺望が開けて
          います。援兵の駐留用というだけあって、主郭および東西の副郭ともに結構なスペースがあり、
          周囲は土塁で囲まれています。北側には横堀を兼ねた帯曲輪と土塁があり、その先の焼尾の
          砦へと続く尾根筋には、2条の堀切が穿たれています。
           この2条堀切や矩形に近い曲輪形成などは、同じく朝倉軍によって築かれたとされる小谷城
          の月所丸と類似しており、朝倉氏の築城技術を垣間見ることができます。

           
 小谷城山王丸付近より大嶽を望む。
大嶽城址標柱および説明板。 
 主郭のようす。
 手前左手から奥へ土塁が続いています。
主郭土塁上から横堀兼帯曲輪と土塁を望む。 
 横堀のようす。
北側尾根の堀切。 


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