長浜城(ながはま) | |
別称 : 今浜城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 羽柴秀吉 | |
遺構 : 石垣跡、堀跡、門、櫓? | |
交通 : JR北陸本線長浜駅徒歩5分 | |
<沿革> 長浜は、羽柴(木下)秀吉による築城以前は今浜と呼ばれ、今浜氏の拠る今浜城があったとされる。 建武三/延元元年(1336)に、佐々木道誉によって築かれたとも伝わるが、今浜城の由緒については 定かでない。 天正元年(1573)に浅井氏が滅亡すると、その領地を与えられた秀吉は、同氏の居城である小谷城 を廃して今浜に築城を開始し、同三年(1575)の秋ごろに完成したとされる。長浜の名は、このときに 秀吉が主君織田信長の一字を拝領して付けたものといわれる。長浜城は大溝城や坂本城などと並び、 琵琶湖の水上ネットワークを重視した水城であった。秀吉はこの長浜城主時代に、子の秀勝(石松丸) が夭折している(実子か否かは両説有)。日本三大山車祭の1つに数えられる長浜曳山祭は、秀勝の 誕生を祝った長浜城下の町民によってはじめられたと伝えられている。 天正十年(1582)、信長の遺領分配をめぐる清洲会議の結果、長浜城周辺は柴田勝家に与えられ、 城には勝家の甥で養子の勝豊が入った。しかし、勝家と秀吉の対立が先鋭化すると、勝豊は秀吉の 調略により寝返った。勝豊が養父勝家に冷遇されていたことが要因といわれている。翌十一年(1583) の賤ヶ岳の戦いの後、長浜周辺は佐和山城9万石に封じられた堀秀政の統治下となった。同十三年 (1585)には、山内一豊が2万石で長浜城主となった。同十八年(1590)、一豊は掛川城へ加増転封と なった。この後、長浜城は西尾光教らが城代として管理したともいわれるが、しばらく詳細不明な期間 が続く。 関ヶ原の戦いから6年後の慶長十一年(1606)、内藤信成が4万石で長浜城主となり、長浜藩が成立 した。信成の子信正は、元和元年(1615)に高槻藩へ移封となり、長浜藩は9年で廃藩となった。長浜 城も廃城され、建材の大半は彦根築城に充てられた。彦根城天秤櫓は、長浜城の遺構と伝えられて いる。 <手記> 秀吉が初めて一国一城の主となった、いわゆる出世城として知られています。しかしながら、遺構は ほとんど残っていません。城址内の石垣は、発掘によって出土した旧石材に、新しい石を混ぜて築いた ものだそうです。模擬天守の前に、一応発掘された根石が申し分け程度に展示されています。 模擬天守は、当時の高名な城郭建築学者がデザインしたものだそうですが、所詮は模擬であって、 なんの根拠もありません。当時の権威でさえ空想のコンクリート天守を肯定していたんだなあと、時代 というものを感じました。 そんな作り物パークのような城址公園より、長浜の黒壁の町並みや大通寺の門前を歩いている方が よほど歴史情緒に浸ることができます。大通寺の台所門は、長浜城の旧大手門を移築したものといわ れています。 |
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長浜城模擬天守を望む。 | |
長浜城旧石垣の根石。 | |
石垣出土地の碑。 | |
大通寺台所門。長浜城大手門を移築したものといわれています。 |