大井城(おおい)
 別称  : 岩村田館
 分類  : 平城
 築城者: 大井朝光か
 遺構  : 堀、土塁
 交通  : JR小海線岩村田駅徒歩15分


       <沿革>
          信濃守護小笠原氏の有力支族大井氏累代の居城とされる。大井氏は、小笠原長清
         の七男朝光が、承久三年(1221)の承久の乱における戦功により信濃国大井荘を与え
         られたことにはじまる。大井城は、朝光の居館として築かれたのがはじまりとされるが、
         朝光の館は長土呂にあったとする説もあり、確定をみていない。
          朝光の子光長は、子を荘内の各地に入植させ、三男行光が岩村田に入った。光長は、
         行光を大井宗家の後継ぎに指名して死去したが、長男(大室)時光がこれに反発して
         家督争いが勃発した。行光はこの争いに勝利し、岩村田大井氏が宗家を世襲すること
         になった。したがって、遅くとも行光の代に、大井城は築かれていたことになる。
          建武二年(1335)、足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻すと、行光の子朝行は本宗家
         の信濃守護小笠原貞宗と共に足利方に属した。同年十二月、1万余騎とされる天皇方
         の軍勢が大井城に攻め寄せ、「於大井庄合戦」(『忽那文書』など)と呼ばれる大規模な
         戦いとなった。朝光は大井城に拠って奮戦したものの、同月二十三日に落城した。同月、
         新田義貞率いる天皇方の本隊は箱根・竹ノ下の戦いで尊氏軍に敗れ、翌三年(1336)
         には、逆に尊氏が入京した。これにより、小笠原氏や大井氏も信濃での勢力を回復する
         ことができたとみられている。
          朝光の弟行時の子光長(光栄)は、信濃守護代に就任している。このため、朝光の跡
         は光長が継いで、大井城に入ったものとみられている。応永六年(1399)、貞宗の曾孫
         長秀が信濃守護に任じられ、京から信州へと下り、大井城に入った。長秀という人物に
         ついては詳らかでない点が多いが、どうやら京のきらびやかな生活に浸っていたようで、
         大井城で壮麗な隊列を整えて、善光寺へと向かった。長秀の信濃国人衆に対する態度
         は相当に高圧的なものであったとされ、翌七年(1400)九月には「大塔合戦」と呼ばれる
         大規模な国人反乱に発展した。直に対面した光長の子でやはり守護代の光矩も、長秀
         に反感を抱いていたのか積極的には長秀を援けるようなことはせず、長秀が塩崎城に
         150騎ほどで追いつめられるに及んで、ようやく国人衆との仲介に乗り出した。長秀は
         京へ逃げ帰ったうえに守護職を罷免され、信濃は無守護の国となった。
          光矩の子持光の代に大井氏は最盛期を迎え、大井城下も「賑ひ国府にまさ」る(『四鄰
         譚藪』)といわれるほどに発展した。持光は、永享十年(1438)の永享の乱で自害した
         鎌倉公方足利持氏の遺児永寿王丸を匿い、成人した永寿王丸は成氏と名乗って鎌倉
         公方を継いだ。持光は成氏との関係を背景に、関東は上野国にまで勢力を伸ばしたと
         される。
          しかし、成氏が鎌倉から古河へ本拠地を移すと、連絡を絶たれた大井氏の拡大路線
         は限界を迎えた。持光の子政光が甲斐への出兵を繰り返したことも、大井氏の勢力を
         減退させる大きな要因となったとされる。文明十一年(1479)八月、政光の子政朝は、
         甲斐武田氏の支援を受けた伴野氏に敗れ、生け捕りにされた。政朝は赦されて大井城
         に帰ることができたが、もはや岩村田大井氏に昔日の勢いはなかった。
          文明十五年(1483)に政朝は世を去り、跡を弟の安房丸が継いだ。安房丸はその名
         の通りまだ若年であったようで、この機を狙って北信の国人村上政清が攻め寄せた。
         大井勢はこれを防ぐことができず、安房丸は小諸へ逃れて大井城は落城した。一般に、
         このときをもって大井宗家の滅亡とされる。大井城には、大井氏一族の大井玄慶なる
         人物ないし安房丸の子政信が入ったとされる。ただし、年齢的にそのころに生まれて
         いたかも怪しい安房丸の子が直後を襲うとは考えにくい。このあたりの大井氏の系譜
         には不詳な点が多いが、いずれにせよ大井一族の誰かが村上氏の傘下として城主に
         任じられたものと推測される。
          明応年間(1492〜1501)ごろ、庶流の長窪城主大井貞隆が、岩村田大井氏を継承
         したとされる。天文九年(1540)、貞隆は諏訪頼重に長窪城を奪われたが、同十一年
         (1542)に諏訪氏が武田氏に滅ぼされると、これに乗じて長窪城を奪還した。しかし、
         翌十二年(1543)には武田晴信が続いて佐久へ侵攻し、貞隆は長窪城に籠るも落城
         し、捕えられて甲斐へ連行された。岩村田大井氏は貞隆の弟貞清が継いだが、大井
         城はこの戦いで晴信方に攻め落とされたとされ、貞清は内山城に移って抵抗を続けた。
          天文二十年(1551)、晴信は大井城を改修したとされるが、城主については伝わって
         いない。天正十年(1582)の天正壬午の乱に際して、大井城主大井雅楽助(美作守・
         大炊助とも)は、徳川方に属した蘆田(依田)信蕃に降った。この大井雅楽助なる人物
         が大井氏の系譜のどこに位置するのかは不明である(あるいは武田氏庶流の大井氏
         の可能性も考えられる)。同年中に同乱が終結すると、大井城も廃城となったものと
         推測される。


       <手記>
          大井城は、湯川の河岸上に築かれた城で、南北に3つの半独立した曲輪が並んで
         います。それぞれ北から、石並(いせならび)城・王城・黒岩城と呼ばれており、南側
         2つの曲輪が県史跡に指定されています。石並城と黒岩城は現況畑地で、王城のみ
         公園として整備されています。
          王城公園には、県天然記念物の大ケヤキがあり、その麓には氏神様などが祀られ
         ています。しかし、残念ながら王城の遺構残存状況は3つの曲輪の中でもっとも悪く、
         周囲は宅地や道路によって削られています。
          黒岩城の残存状況も決して良いとはいえず、畑地の西側に土塁跡と思われる斜面
         がみられるのみです。
          奇しくも、もっとも注目すべき遺構が残っているのは、史跡指定されていない石並城
         と思われます。この曲輪は、北西隅の折れを含めて、北辺と西辺の空堀がかなりの
         距離にわたって良好に残っています。西辺の堀は、途中に切れ込みがみられます。
         石並城は、3つの曲輪のなかでもっとも古い箇所とされていますが、最初期の大井城
         は、この切れ込み部と北辺の堀に挟まれた部分を城地とする、崖端の方形館だった
         のかもしれません。

          
 岩村田城址から大井城址を望む。
王城公園近望。 
 王城のケヤキ。
王城公園から黒岩城址を望む。 
 黒岩城址西辺の斜面。
 土塁跡か。
王城と石並城の間の切通し。 
城の遺構かは不明。 
 石並城址のようす。
石並城西辺の空堀と切れ込み部。 
 北辺の堀跡。
北西隅の空堀。 


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