梶原氏館(かじわらし)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 梶原氏か
 遺構  : なし
 交通  : JR東海道本線他大井町駅徒歩15分


       <沿革>
           梶原氏の屋敷跡と伝わる。比定地である来福寺の北にある梶原稲荷神社は、もともとは萬福寺
          とともにその境内に梶原景時によって創建されたものとされる。萬福寺は大井村鹿島谷(現在の
          大井6丁目付近)にあったが、元応二年(1320)に火災で焼失し、神社だけが焼け残った。萬福寺
          は馬込村に再建され、稲荷神社は来福寺の境内に遷された。このとき梶原氏は居城も馬込城
          移したともいわれることから、この時点ですでに館は廃されていた可能性が考えられる。
           後北条氏が編纂した『小田原衆所領役帳』によれば、梶原日向守と梶原助五郎が、それぞれ
          新井宿村と馬込村に役高を有していた。北条家臣梶原氏と景時流梶原氏の関係は不明だが、
          梶原氏館については前者のものとする向きもある。ただし、日向守ないし助五郎の所領が大井村
          に及んでいたかは定かでない。
           『新編武蔵国風土記稿』の大井村来福寺の項には、稲荷神社背後にある「梶原塚」について、
          日向守・助五郎が近隣に所領を得ていたことによる「後人附会」ではないかと疑問を呈している。

       <手記>
           館跡とされる来福寺は、東京湾に臨む海岸段丘の隅に位置し、南と東の2辺が緩やかな斜面
          となっています。一応中世城館の地形としては十分ですが、遺構らしきものは認められません。
          かつては来福寺境内にあったとされる梶原稲荷神社は、周辺の宅地化によって寺とは切り離され、
          民家の奥に追いやられています。ただ、地元の方の信仰は篤いようで、社殿の脇には縁起を記し
          た額が掲げられています。
           判断材料がほとんどといってよいほどないので、ここが城館跡であったかどうかは分かりません。
          ただ、馬込や新井宿が本貫地であった梶原助五郎や日向守の城であったとは、考えにくいように
          思います。また、鎌倉時代の梶原氏の居館としても、景時が創建し後に菩提寺となった萬福寺が
          やや離れたところにあったとされているのが気になります。
           個人的には、平安時代末期に荏原郡大井郷を領していたとされる紀姓大井氏との関連も考慮に
          入れてみてはどうかと考えています。源頼朝に仕えた大井実春は怪力をもって知られ、源平合戦
          での戦功によって伊勢国に所領を与えられました。有力な一族だったと思われますが、大井氏の
          居所については詳らかではありません。大森堀の内を大井氏の居館に比定する説もあるそうです
          が、こちらは大井郷ではなく大社(森)郷に属していたはずですので、位置的には来福寺の方が
          大井郷の開発の中心としては相応しいように思います。

           
 来福寺。
来福寺から海岸方面を望む。 
 梶原稲荷神社。


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