大蔵館(おおくら)
 別称  : 源義賢館
 分類  : 平城
 築城者: 源義賢
 遺構  : 土塁、堀
 交通  :東武東上線武蔵嵐山駅徒歩25分


       <沿革>
           源為義の長男義朝は、若くして関東に独自の勢力を築き上げ、それによって父との
          対立を生んでいた。これに対し、為義は次男で義朝の異母弟帯刀先生義賢を関東へ
          下向させ、対抗勢力となるよう指示した。義賢ははじめ上野国多胡に居を定めたが、
          秩父平氏頭領秩父重隆の娘を娶り、仁平三年(1153)に武蔵国比企郡大蔵に居館を
          築いて移った。
           このころ、義朝は中央に出仕していたため、その長男義平が関東に下向していた。
          久寿二年(1155)、義平は大蔵館を急襲し、義賢と重隆は討ち死にした。義賢の遺児
          は、敵方の畠山重能(重隆の甥)によって斎藤実盛に預けられ、さらに信濃国の中原
          兼遠のもので養育された。後の木曽義仲である。
           その後の大蔵館については不明である。


       <手記>
           大蔵地区は、都幾川が緩やかにカーブする内側の丘上にあり、とくに西側に氾濫原
          が広がっています。史料上はわずか3年ほどしか存続しなかったとされる館ですが、
          それにしては遺構がかなり良好に残っています。
           館の南東隅とみられる大蔵神社の境内は、四周を土塁で囲まれたやや広い空間で、
          櫓台というより詰曲輪のような感じになっています。その西辺には、やや藪化してます
          が、深い堀がみられます。神社から県道沿いに東へ行くと、東端の土塁と堀跡があり
          ます。ここに県教委が設置した説明板があり、実測図が載せられています。北辺は、
          宅地化していて不明瞭ですが、北西端と思われる角地の土塁が認められます。ぐるっ
          と一周すれば、およそどのような館であったかは十分実感できます。
           さて、方々でいわれているようですが、大蔵館は果たして義賢とともに滅んだ館なの
          かという疑問はぬぐえません。第一に、前述の通り平安末に3年間しか存在していな
          かったとすれば、遺構の残り具合が少々良好すぎです。第二に、結構な深さをもつ堀
          や、単郭の館に詰曲輪のような区画が存在するなど、初期の武士の館にしては造作
          が大きすぎるように感じられます。したがって、義賢以降も存続していたか、あるいは
          室町時代中期ごろに再び取り立てられて改修されたのではないかと推測されます。
           ちなみに、東京都世田谷区町田市にも義賢の大蔵館があったとされる伝承地が
          あります。ただ、秩父氏や大胡方面との関係を考えれば、義賢の館がここになかった
          可能性の方がかなり低いだろうと思われます。

           
 大蔵神社の館址碑。
大蔵神社境内東側の土塁。 
 
 境内西辺の土塁。
境内西辺下の堀。 
 東辺の土塁。
東辺の土塁と堀跡。 
 北西隅と思われる土塁状地形。


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