大松山城(おおまつやま)
付 天神の丸(てんじん)
 別称  : 松山城
 分類  : 山城
 築城者: 秋庭重信
 遺構  : 曲輪、堀、井戸
 交通  : 備中松山城から徒歩10分


       <沿革>
           承久三年(1221)の承久の乱の戦功により、三浦一族とされる秋庭三郎重信が備中国有漢郷
          地頭に任じられ、仁治元年(1240)に臥牛山の支峰大松山に城を築いたのがはじまりとされる。
          三浦義明の弟津久井義行の子三郎義光は、山内荘秋庭郷を本貫として秋葉氏を称したと伝え
          られる。通称からみても、重信は秋葉義光の子孫である可能性が高いと推測されるが、系譜は
          定かでない
           秋庭氏は5代続いたとされるが、元弘元年(1331)に高橋九郎左衛門宗康が大松山城を居城
          とした。秋庭氏が城を譲った理由は不明である。高橋氏は備後三吉氏の一族とされ、鎌倉幕府
          から備中守護に任じられていたとされる。宗康は臥牛山の南の支峰である小松山に城を拡張し、
          弟の大五郎に守らせた。山麓の地名を高橋(高梁)から松山に改めたのは、宗康の子範時とも
          いわれる。元弘三年(1333)、足利高氏らが挙兵して六波羅を攻めると、宗康・範時父子は北条
          仲時らとともに東国を指して落ちたものの、近江国番場で主従ことごとく自害した。
           文和四/正平十年(1355)、高師直の甥にあたる高師秀が大松山城主となったとされる。それ
          以前にも、高氏一族の南宗継が一時備中守護を務めているが、南北朝時代初期の大松山城の
          動静については詳らかでない。貞治元/正平十七年(1362)には、秋庭信盛ないし子の重明が
          松山城を回復した。師秀は城を逐われたとも、徳倉城に退いたともいわれる。
           応仁元年(1467)に始まる応仁の乱では、秋庭元明が東軍・細川勝元の側近として活躍したと
          される。元明の次代の元重も細川政元に近侍していたが、備中守護細川勝久が政元と対立する
          と、明応元年(1492)に守護代庄元資や元重など政元方の国人が勝久と合戦に及んだがものの
          敗北した。勝久は、改めて政元の支援を受けた元資らと和睦したが、元重の名は見られなくなり、
          秋庭氏は没落したものと推測されている。
           永正六年(1509)、将軍足利義稙は奉公衆で足利一門の上野信孝を鬼邑山城主に据え、弟の
          頼久を松山城主とした。天文二年(1533)、尼子氏の支援を受けた猿掛城主庄為資が松山城を
          攻め落とし、頼久の子頼氏は討ち死にした。
           永禄四年(1561)、成羽の鶴首城主三村家親が毛利氏と結び、松山城を攻略して庄高資を追い
          落とした。家親は松山城に居城を移し、三村氏は一躍備中の最大勢力に躍り出た。しかし、家親
          は同九年(1566)に美作国興善寺で宇喜多直家の命を受けた遠藤秀清・俊通兄弟に狙撃され、
          暗殺された。
           跡を継いだ子の元親は直家に弔い合戦を仕掛けるが敗れ(明禅寺合戦)、永禄十二年(1569)
          から翌元亀元年(1570)の間に、庄高資・勝資父子が松山城を奪い返した。しかし、翌元亀二年
          (1571)に毛利氏の援軍を得た元親が高資を討ち取り、松山城を再度奪回した。この後、松山城
          は大松山から小松山まで一体となった大城郭に改修されたとされる。
           天正二年(1574)、毛利氏は宇喜多氏と和睦し、これを受け入れられなかった元親は毛利から
          離反して織田氏や三浦貞広に通じた。同年冬に、毛利氏は8万もの大軍を率いて三村氏を攻め、
          翌三年(1575)三月までには、松山城を残して支城群が悉く陥落した。
           毛利勢は要塞化していた松山城を力攻めにはせず、包囲して士気の衰えを待った。2か月ほど
          持ち堪えたものの、城内から内応者が出て天神の丸が陥落し、五月二十二日に落城した。元親
          は自害して、戦国大名三村氏は滅亡した。
           戦後、毛利元就の四男元清が穂田郷の猿掛城に入って穂井田氏を称した。松山城には城番が
          置かれたとみられるが、詳しい扱いは定かでない。天正八年(1580)には、毛利輝元が松山城の
          修築を命じている。
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで毛利家が防長2国に減封されると、備中は徳川家直轄領と
          なり、奉行として小堀正次が松山城に入城した。同九年(1604)に正次が没すると、嫡男の政一が
          跡を継いだ。建築家・造園家として名高い遠州政一によって、城と山麓の御根古屋が修築された。
          遅くともこのときまでに、松山城の中心は小松山に移っていたものと推測される。


       <手記>
           現存12天守や日本三大山城で知られる備中松山城の前身となる城です。臥牛山背後の石垣
          造りの大池や番所などを見るに、大松山城や天神の丸の跡も近世松山城の城域に取り込まれて
          いたとは思いますが、城砦としてはほとんど顧みられていなかったでしょう。
           近世松山城主城域最後尾の堀切を越えて臥牛山頂を目指すと、ほどなく「相畑城戸跡(あいの
          はたきどあと)」にでます。曲輪形成は曖昧な緩斜面の空間なのですが、石垣も見られ、名前の
          とおり城戸や山上の根古屋などとして利用されていたものと推測されます。
           さらに登ると3段の削平地があり、最上段には「せいろうが壇跡」と彫られた石標がありますが、
          「せいろう」の意味は不明です。せいろうが壇の1段上は天神の丸の主郭から堀切を隔てた出丸
          となっています。主郭には塚状の上段があり、頂部には明治時代まで存続していたという天神社
          の基壇石列がみられます。
           天神の丸から鞍部を挟んだ北西の峰が大松山城跡です。この鞍部には、前出の大池があり、
          石垣で固められていて江戸時代まで使われていたようですが、おそらくそれ以前も水の手として
          重視されていたのでしょう。私が訪れたときは修築工事中だったようで、水が抜かれて石が一部
          詰み直しのため別置きされていました。
           大松山城は大きく3つの曲輪が直列していて、曲輪の間は堀切で隔てられています。石組みの
          井戸が残っていますが、大松山城は近世に手を加えられた形跡がみられないため、おそらく三村
          時代の遺構なのではないかと拝察されます。曲輪もそれぞれ面積はあるものの、とりたてて工夫
          のようなものはみられません。堀以外の特徴的な防御施設がないのは天神の丸も同様で、規模
          は大きいものの技巧には乏しいというのが、三村期の松山城全体の実態だったのではないかと
          推測されます。

           
 近世松山城主城域最後尾の堀切。
相畑城戸跡。 
 相畑城戸跡の石垣。
天神の丸へ登る道。 
 天神の丸先端部の腰曲輪と切岸。
三段腰曲輪最上段の「せいろうが壇」。 
 せいろうが壇背後の出丸切岸。
天神の丸と出丸の間の堀切。 
 天神の丸。
天神の丸主郭上段。 
石組みは天神社跡か。 
 天神の丸主郭下段のようす。
天神の丸北東腰曲輪の切岸を望む。 
 大池。
石垣津見直し中の石材。 
 大松山城跡石碑と説明板。
大松山城の井戸跡。 
 大松山城の本丸。
本丸と二の丸の間の堀切跡。 
 二の丸のようす。
二の丸と三の丸の間の堀切。 
 同上。
三の丸のようす。 
 三の丸から1段下の曲輪を見下ろす。


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