備中松山城(びっちゅうまつやま)
 別称  : 松山城、高梁城、小松山城
 分類  : 山城
 築城者: 高橋宗康か
 遺構  : 天守、櫓、土塀、石垣、堀
 交通  : JR伯備線備中高梁駅からバスに乗り、
      「松山城登山口」下車徒歩50分


       <沿革>
           元弘年間(1331〜33)、大松山城主高橋九郎左衛門宗康は小松山に城を拡張し、弟の大五郎に
          守らせた。高橋氏は備後三吉氏の一族とされ、宗康は松山城を築いた秋庭氏に代わり、鎌倉幕府
          から備中守護に任じられていたとされる。同三年(1333)に足利高氏らが挙兵して六波羅を攻める
          と、宗康・範時父子は北条仲時らとともに東国を指して落ちたものの、近江国番場で主従ことごとく
          自害した。山麓の地名を高橋(高梁)から松山に改めたのは範時ともいわれる。
           その後も大松山城の支城として機能したとみられるが、16世紀後半に戦国大名・三村元親により
          大松山・小松山双方を一体とした大城郭に改修された。城の中心も、このときに大松山から小松山
          に移されたともいわれる。
           天正三年(1575)に松山城が毛利氏に攻め落とされて三村氏が滅ぶと、毛利元就の四男元清は
          穂田郷の猿掛城に入って穂井田氏を称した。松山城には城番等が置かれたとみられるが、詳しい
          扱いは定かでない。天正八年(1580)には毛利輝元が松山城の修築を命じている。
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで毛利家が防長2国に減封されると、備中は徳川直轄領となり、
          奉行として小堀正次が松山城に入城した。同九年(1604)に正次が没すると、嫡男の遠州政一が
          跡を継いだ。建築家・造園家として名高い遠州によって、城と山麓の御根古屋が修築された。
           元和三年(1617)、遠州は河内国奉行に転出し、代わって池田輝政の甥にあたる長幸が鳥取藩
          から6万3千石で入封し、備中松山藩が成立した。しかし、池田家は寛永十八年(1641)に2代藩主
          長常が嗣子なく病没して断絶し、翌十九年(1642)に成羽藩主水谷勝隆が5万石で移封となった。
          勝隆の子勝宗の代に、松山城は天和元〜三年(1681〜83)の3か年をかけて大改修され、天守を
          はじめ今日に見る姿に改修された。
           水谷家も勝宗の子勝美の代で無嗣改易となり、安藤氏2代・石川総慶を経て、延享元年(1744)
          に総慶と交代する形で板倉勝澄が伊勢亀山藩から5万石で封じられるに及び、ようやく藩主家が
          安定した。
           7代藩主勝静は幕末期に老中首座を務め、備中松山藩は新政府から朝敵とされた。藩主不在の
          藩内は年寄役の山田方谷が預かっており、方谷はいったんは領内の防備を固めたものの、無血
          開城を決定した。勝静は旧幕府軍に従って蝦夷にいたが、方谷によって連れ戻されて出頭・謹慎
          し、5代藩主勝ラの甥勝弼を8代藩主とした。戊辰戦争の後、松山藩は高梁藩と改称し、2万石に
          減封された。


       <手記>
           現存12天守で唯一の山城であり、近年は雲海に浮かぶ天空の城などとして一般での知名度も
          高まりつつある松山城。岩村城・高取城と並び日本三大山城とも称されますが、これは江戸時代
          まで存続した山城のなかで、という意味です。また備中松山城とは、伊予松山城など他の松山城
          との区別による通称です。
           山麓居館からの比高は350mほどもあり、近世城郭としてはもちろん、戦国時代の山城としても
          尋常ならざる高さにあります。もともとは上述のとおり、鎌倉末〜南北朝時代に築かれた山岳城を
          基調としており、それが幕末まで現役で使用されるというのは、なかなか他に類例がないのでは
          ないでしょうか。
           そんな高所の松山城はもちろん麓から登ることもできますが、下太鼓丸と中太鼓丸の間にある
          ふいご峠まで車で上がるのが絶対におすすめです。土休日や繁忙期には、自家用車は東の谷筋
          の城まちステーションに停め、そこからふいご峠まで有料のシャトルバスが運行されています。
           峠から登っていくと、中太鼓櫓跡石垣を経て大手門に至ります。峠からでも比高100mほどあり、
          結構ハァハァ言いながらの登山でした。私は小学生のころに一度家族旅行で訪れたことがあるの
          ですが、そのときはこんなに苦労した記憶はありませんでした。年を取って重くなったんだなぁ、と
          しみじみ感じます笑
           大手門に始まる石垣また石垣の圧倒的な景観については、ここで改めて触れる必要はないかと
          思います。だた、大手門跡を抜けてすぐの土塀が天守や二重櫓と並ぶ重要文化財であり、貴重な
          遺構である点は、見逃してはならないでしょう。
           デジカメのない小学生期に訪れた本丸には、正面から見て2層2階の天守しかありませんでした
          が、1994〜97年に本丸の諸櫓や門が木造復元され、だいぶ威厳のある姿になりました。天守は
          周知のとおり小ぶりでずんぐりしているものの、内部に御社壇と呼ばれる神殿の間や自害のため
          の空間、囲炉裏などが設けられており、ある意味で実戦を意識している点は興味深いといえるの
          ではないでしょうか。
           天守の背後には二重櫓が残り、後曲輪や水の手門を経て、急崖を下って主城域最後尾の堀切
          となります。いずれも狭隘な山上の土地をなんとか曲輪形成しているため、石垣が急峻で武骨の
          感があります。堀切を渡ると(水の手)番所跡を脇目に天神の丸を経由して大松山城へと向かい、
          江戸時代に利用されていた箇所もあるようなのですが、ここから先は大松山城の項にて解説する
          ことにします。

           
 松山城遠望。
中太鼓櫓石垣。 
 中太鼓櫓跡。
大手門跡。 
 同上。
三の平櫓東土塀。 
 三の丸から本丸方面を見上げる。
黒門跡。 
 城内で最も古い石垣だそうです。
本丸の現存天守および復元建物群。 
 復元土塀と天守。
天守を正面から。 
 天守上階のようす。
 奥が御社壇。
天守上階から本丸および高梁市街を見下ろす。 
 二重櫓。
二重櫓を後曲輪側から。 
 搦手門跡。
二重櫓前から後ろ曲輪を見下ろす。 
 水の手門跡。
主城域最後尾の堀切。 
 堀切脇の(水の手)番所跡。


BACK