大見城(おおみ) | |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 大見氏か | |
遺構 : 曲輪跡、土塁、堀 | |
交通 : 伊豆箱根鉄道修善寺駅よりバス 「実成寺」バス停下車徒歩5分 |
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<沿革> 平安末期ごろに、大見氏によって築かれたと考えられている。大見氏は、平国香 の曾孫秋田城介平繁成の後裔とされているが、その系譜にはいくつかあり定かで ない。一般に、大見氏の初代は大見平三家政とされ、その子とされる平次家秀の 名が『保元物語』にみえる。家秀ら大見一族は、治承四年(1180)の源頼朝の挙兵 に応じ、後に越後国白川荘地頭職を与えられた。 家政ないしその前後の代ごろに、大見氏は大見城下の実成寺付近に館を構えた とされるが、他方で大見城北東の吾妻神社の建つ山を大見古城と呼び、その西麓 に居館があったとする伝承もある。 大見氏は、頼朝旗挙げからの功臣であるが、鎌倉幕府成立後の有力御家人間の 権力争いが激化すると、早い段階で越後国へ移住する道を選んだとみられている。 こののち、室町時代中期ごろまで、大見郷領主および大見城について、詳細不明の 時期が続く。 明応六年(1497)、狩野城主狩野氏が伊勢宗瑞(北条早雲)の柏久保城を攻めた 際、大見三人衆(梅原杢左衛門・佐藤四郎兵衛・上村玄蕃)が伊勢氏側として大見 城から駆け付け、狩野勢を背後から攻めて撃退したと『大見三人衆由来書』にある (三人衆については佐藤藤左衛門・梅原六郎左衛門・佐藤七郎左衛門とも)。三人 衆の出自については、大見氏との関係も含めて定かでない。 翌明応七年(1498)、宗瑞は伊豆を平定したが、その後の大見城については不明 である。 <手記> 大見城は、大見川と冷川の合流点に突き出した小規模な峰を利用して築かれて います。城跡は一応史跡として整備されているようで、説明板や標柱が随所に立て られています。一応と書いたのは、一度樹木を整理して見通しをよくしたようですが、 その後ほとんど手入れがされていないようで、山一面ススキなどの微妙な背丈の 草に覆われてしまっています。道は上までちゃんと分かるのですが、草を踏み分け ただけなので滑りやすく、段ボール一枚あれば頂上から下まで一気に滑り下りられ そうな勢いでした。 現地説明板の概略図と、『静岡の城 ベスト50を歩く』掲載の縄張り図では規模に かなり差があり、前者の方が曲輪や堀を多く備えた立派な城として描かれています。 ですが、私の見たところでは後者に近いような気がします。おそらく、確実な遺構は 山頂の主郭とその周囲の帯曲輪、主郭背後の堀切と山腹の数条の竪堀くらいでは ないかと思われます。城山を登りはじめてまもなくのところに鎮座する諏訪神社も、 曲輪を利用したものと十分考えられるのですが、いかんせん近世に遷座されたもの なので、安易な断言は禁物のようです。 全体として、それほど大きな城とはいえないようで、早雲の伊豆平定以降どこまで 現役だったかは難しいところです。少なくとも、天正十八年(1590)の小田原の役に 際して改修されたということはなさそうです。 城の規模は小さいですが、大見川および冷川の流域には穏やかな谷戸が多く、 伊豆国内では生産性の高い地域だったと思われます。したがって、大見衆の支持 を得られたことが、早雲の伊豆平定に大きく寄与したであろうことは想像に難くあり ません。 とにもかくにも、せっかく山麓に物産市まで建設して観光地化しようとしているの ですから、一刻も早く下草を刈って見晴らしを良くしていただけたらと思います。 |
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本曲輪標柱。 | |
主郭のようす。 | |
主郭背後の堀切。 | |
主郭の虎口とされる箇所。 | |
帯曲輪跡。 | |
竪堀跡と標柱。 | |
竪堀跡か。 | |
ススキに埋もれた虎口の標柱。 | |
諏訪神社。曲輪跡か。 | |
諏訪神社下の堀切標柱。 遺構かどうかは微妙な感じです。 |