柏久保城(かしわくぼ)
 別称  : 城山砦
 分類  : 山城
 築城者: 狩野氏ないし北条早雲
 遺構  : 曲輪跡、土塁、堀
 交通  : 伊豆箱根鉄道修善寺駅徒歩20分


       <沿革>
           明応二年(1493)、堀越公方足利茶々丸を滅ぼした伊勢宗瑞(北条早雲)は、続い
          て狩野城の狩野氏を討つため、柏久保城を拠点とした。城はこのときに築かれたとも、
          もともと狩野氏の出城があったものを伊勢軍が奪ったともいわれる。柏久保城北面の
          新九郎谷は、伊勢新九郎こと宗瑞がこの方面から攻め寄せたことにちなむともいわ
          れる。また、柏久保城が当初対峙していたのは、堀越公方の残党が籠る修善寺城
          であったともいわれる。
           明応六年(1497)、狩野勢が柏久保城へ攻め寄せたが、大見城の大見三人衆の
          活躍によって撃退されたことが『大見三人衆由来書』にみえる。
           翌明応七年(1498)、伊勢氏による伊豆平定が成るが、柏久保城についてはその
          後の史料には登場しない。


       <手記>
           修善寺駅西側の、円錐形で目立つ山が柏久保城址です。東西両側から登ること
          ができますが、東側の登山道は入口が分かりづらいので、西側から訪城することを
          おすすめします。西側の道は一宮神社ないし天桂寺脇から通じており、東側は市民
          グラウンド脇の林道に出ます。
           山頂の主城域は、下向きの繊月形をしています。繊月の左端が頂上で、土塁で
          囲まれたなかに小さな神社が鎮座しています。神社境内(?)から東に一段下がって、
          城内最大の曲輪となります。『静岡の山城 ベスト50を歩く』では、神社境内を主郭、
          一段下がった曲輪を二の郭としています。ただ、この主郭と二の郭の南辺の土塁は
          一直線につながっており、両者に明確な区別はなかったとも考えられます。
           主郭と二の郭の北辺は先述の新九郎谷で、土塁は設けられていません。かなり
          の急崖であるため、土塁を築く必要はないと判断されたものと推測されます。
           二の郭の東下には三の郭があります。両者の間には、明確な切岸による断絶が
          認められます。二の郭と接した三の郭の付け根から、東側へ下りる道が伸びており、
          ここが虎口と考えられているようです。ただ、とりたてて工夫はみられないので断言
          はできないものと思われます。
           対して、西側から主城域に至るには、堀切を越えて主郭下の腰曲輪の脇を抜け、
          主郭下を迂回して武者溜り状の出郭を通過しなければなりません。東側に比べて
          かなり厳重なつくりとなっており、柏久保城がつとめて対狩野氏の城であったこと
          を物語っているように感じられます。
           逆に、伊豆平定後も北条氏によって改修を加えられ続けたとみるには、規模が
          小さすぎるように思われるので、少なくとも天正十八年(1590)の小田原の役まで
          現役であったということはないようにも感じました。

           
 柏久保城山を望む。
山頂(主郭跡か)の城址碑。 
 山頂のようす。
主郭および二の郭の土塁。 
 主郭手前の武者溜り状の出郭。
主郭の土塁を腰曲輪から見上げる。 
 西端の堀切。
新九郎谷の石碑。 
 二の郭から三の郭を望む。
三の郭の土塁。 
 東側尾根筋の削平地。
 城の遺構かは不明です。


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