大類城(おおるい)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 和田業繁
 遺構  : 堀、土塁
 交通  : JR高崎駅よりバス。「柳原」または「宿大類町」
       バス停下車徒歩5分


       <沿革>
           永禄九年(1566)に箕輪城が落城した後、武田氏に属した和田業繁によって居城和田城
          支城として築かれたと考えられている。天正三年(1575)の長篠の戦いで業繁が戦死すると、
          武田重臣跡部勝資の子で娘婿の信業が跡を継いだ。信業は、同十年(1582)の武田氏滅亡
          後は北条氏に従ったが、同十八年(1590)の小田原の役で北条氏も滅ぶと、没落して浪人と
          なった。大類城もこのときに廃城となったものと推測される。


       <手記>
           大類城は、一貫堀川を南端とし、宿大類町公民館を東端、熊野神社を北西端とする規模の
          大きな城です。喰い違い虎口をもつ方形の本丸を中心に、いくつもの曲輪が輪郭式状に取り
          巻く構造をしていて、曲輪間は水濠で仕切られ、それぞれの曲輪は半ば独立していました。
           現在、本丸は宿大類町の中心として開発され、さらに幹線道路が貫通していて遺構は完全
          に消滅しています。ただ、交差点の角に本丸跡の石碑が立てられており(上の地図の真ん中
          の小点)、これだけでも周辺の城跡よりずっとマシかなと感じました。
           本丸南東の慈眼寺と本丸北東の熊野神社も城域に含まれていますが、熊野神社裏手には
          土塁跡と思しき土盛りがあるものの、慈眼寺には遺構らしきものは残っていません。
           遺構が最も良好に残っているのは、本丸南東の曲輪周辺です。熊野神社の門前から南に
          向かって、鉤字状に堀と土塁の跡がはっきり見て取れます(地図左手の太線)。また、慈眼寺
          北西の田も堀跡と思われ、隣接して土塁跡と見受けられる祠があります。
           城の東に位置する公民館(地図の右手の小円)は、判形と呼ばれる別郭跡で、ここに大類城
          と周辺の城館に関する説明板があります。また、大類城のすぐ南には、児玉党の一派大類氏
          累代の居館である大類館がありました。両城が同時期に存在していたかについては、詳らか
          ではありません。


           
 大類城本丸跡石碑。
本丸南東の曲輪の堀跡。 
 慈眼寺北西の堀跡と思しき水田と、
 土塁跡と思しき祠。
熊野神社。 


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