高崎城(たかさき) | |
別称 : 和田城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 和田義信 | |
遺構 : 櫓、門、水濠、土塁 | |
交通 : JR高崎駅徒歩5分 | |
<沿革> 高崎城の前身となる和田城は、正長元年(1428)に和田義信によって築かれたと伝わる。 和田氏は鎌倉時代の御家人和田義盛の子孫とされ、白川のほとりの和田山館に居を構えて いたと伝わる。和田山館の縁起によれば、和田氏は寛喜二年(1230)か寛元元年(1243)に 赤坂へ移り、後に赤坂は和田氏にちなんで和田と呼ばれるようになったという。 その後、和田氏は関東管領山内上杉氏に従った。越後の長尾景虎が関東管領職と上杉氏 を継いで上杉政虎(後の謙信)と名乗ると、和田業繁は義父長野業正とともに政虎に従った。 しかし、永禄四年(1561)に政虎が小田原城攻めに失敗すると、業繁は武田氏に通じ上杉氏 に反旗を翻した。武田信玄は和田城に金丸(土屋)昌次を派遣した。 永禄六年(1563)五月、上杉輝虎(政虎から改名)は、業繁の甥喜兵衛の内応を好機として 和田城へ進軍した。しかし内応が露見したため、上杉軍は小競り合いののち厩橋城へ撤退 した。事態を重視した信玄は、昌次に代えて横田康景に30騎と鉄砲足軽100人を付けて和田 城へ加勢に向かわせた。同年閏十二月、輝虎は本格的な城攻めを行ったが、城兵は撃退に 成功した。輝虎は翌七年(1564)八月に再び和田城へ兵を向けたが、まもなく北条勢に攻め られた関宿城の救援のため転進し、攻城戦には至らなかった。 天正三年(1575)の長篠の戦いで業繁と弟の信景(正盛)は討ち死にし、家督は業繁の子 信業が継いだ。同十年(1582)に武田氏が滅亡すると、信業は北条氏に従った。同十八年 (1590)の小田原の役では、信業は小田原城に籠城していた。和田城には信業の子業勝が いたが、前田利家・上杉景勝の連合軍に包囲され、降伏した。北条氏も同役で滅亡し、和田 城は廃城となった。 徳川家康の関東入封後の慶長二年(1597)、箕輪城主井伊直政が家康の命により和田城 跡への新城築城にとりかかった。翌三年(1598)、直政は箕輪から移り、城名も高崎城と改め られた。同五年(1600)の関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠の中山道方面軍が高崎城に3日間 滞在したとされる。 同年十一月、直政は佐和山城へ移封となり、高崎城は総社領主諏訪頼水預かりとなった。 頼水は翌六年(1601)に高島城へ移封となり総社を去ったが、同九年(1604)に酒井家次が 5万石で入城するまで、諏訪氏が高崎城を管理した。その後、戸田松平康長、藤井松平信吉、 安藤家3代、大河内松平輝貞、間部詮房と、目まぐるしく城主が代わった。安藤重長の代の 寛永九年(1632)、徳川家光の弟忠長が不行跡を理由に高崎城へ幽閉され、翌十年(1633) に自害を命じられている。享保二年(1717)、詮房ののち松平輝貞が再び高崎城に封じられて ようやく城主家が安定し、以後大河内松平家が10代を数えて明治維新を迎えた。 <手記> 高崎城は、烏川と碓氷川の合流点の河岸上に位置しています。現在、城内には市役所や 市民ホールなどの公共施設が多数建設されています。そのため、三の丸外堀と土塁は残って いるものの、主城域についてはきれいさっぱり均されています。 建造物としては、農家の納屋となっていた本丸乾櫓が、三の丸の模擬石垣上に移築されて います。ただ位置も違っていれば、総土塁の城ですから石垣の上に乗っていることも不自然 です。また、何故か櫓の背後に二の丸東門が移築されています。 土塁には桜並木が植えられ、春にはさぞ綺麗だろうとは感じました。城としては、この外周 以外に特段見るところはありません。 城の西側、烏川に面した和田橋のたもとに、近年まで和田城の櫓台という貴重な遺構が 残っていたそうです。しかし、バイパスの建設によりこちらもきれいさっぱり消滅したようです。 群馬県の諸城を訪ねて感じることですが、どうも群馬は史跡の保存について無頓着な気が します。城内に高く聳える立派な市庁舎が、何とも皮肉に映りました。 |
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乾櫓(移築現存)。 | |
東門(移築現存)。 | |
三の丸水濠と土塁。 | |
和田城櫓台跡があったあたり(和田橋東詰)。 |