牛ヶ城(うしが)
 別称  : 大里城、武隈城
 分類  : 山城
 築城者: 矢田野氏か
 遺構  : 曲輪、土塁、堀
 交通  : 東北自動車道矢吹ICから車で15分


       <沿革>
           須賀川二階堂氏庶流の矢田野城主矢田野氏によって築かれたとみられるが、詳しい
          経緯は不明である。
           天正十七年(1589)に二階堂氏が伊達政宗に攻め滅ぼされた際、矢田野伊豆守義正
          は伊達氏に服属した。しかし、翌十八年(1590)に政宗が小田原へ参陣にした際、随行
          していた義正は逃亡して反伊達の二階堂旧臣を糾合し、牛ヶ城に拠って反旗を翻した。
           政宗は石川昭光・片倉景綱らに鎮圧を命じ、牛ヶ城は二重三重に取り囲まれたが、
          城兵の士気は高く落ちる気配を見せなかった。ついに伊達勢は力攻めを諦め、水の手を
          断つ作戦に出たが、それでも落城せず、約1か月にわたり抵抗した後、浅野長政の意見
          に従った政宗は囲みを解いた。
           まもなく奥州仕置により政宗は岩瀬郡を召し上げられ、義正は牛ヶ城を出て佐竹氏を
          頼った。ここに、牛ヶ城は廃城となったとみられる。


       <手記>
           牛ヶ城の名のとおり、臥牛のような悠たる姿をした比高50mほどの小山の城です。城内
          は半ば公園化されていて、南東麓ないし北西付け根の天栄村ふるさと文化伝承館から
          散策路が通じています。どちらか行っても、上り下りの労はさほど変わらないでしょう。
           山頂に中心となる本丸と二の丸があり、前後に何段もの曲輪を梯郭式に重ねた構造を
          しています。最後尾に堀切を設けているものの、規模としては大きくなく、ほかに防衛上
          の工夫がそれほど凝らされているというわけでもありません。
           伊達の大軍が名城・堅城だから攻めあぐねるという感じには、私にはどうも思えません。
          この城がこれだけ粘れたのは、先立つ須賀川城攻めで二階堂家中からひと通り内通者
          が出払った後で、「それでも伊達はイヤ!」という一念で集結した面々ということから、
          士気が相当に高かったのが最大の理由なのではないかと推察しています。

           
 南西から牛ヶ城跡を望む。
館ノ内越しに南東から望む。 
 先端側中腹の腰曲輪群。
同上。 
 二の丸のようす。
二の丸の先端部。 
 二の丸と本丸の間の鞍部。
 堀切跡か。
本丸のようす。 
 本丸背後の腰曲輪。
本丸の切岸を見上げる。 
 本丸背後の曲輪の堀ないし虎口状地形。
同じく堀切状地形。 
 その下の土塁を伴う腰曲輪。
同上。 
 最後尾の堀切。
同上。 


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