大田切城(おおたぎり)
 別称  : 大田切郷之城
 分類  : 平城
 築城者: 菅友則か
 遺構  : 堀
 交通  : 中央自動車道駒ヶ根ICから車で5分


       <沿革>
           『吾妻鏡』によれば、平安時代末期に北信の豪族・笠原頼直の子ともいわれる菅冠者友則が
          「大田切郷之城」に拠っていた。友則は平家の与党で、治承四年(1180)九月十日に武田信義・
          一条忠頼ら甲斐源氏の軍勢に攻められ、敵わずとみて館に火を放ち自害したとされる。
           本城はその大田切城に比定されているが、確証はなく異論も多い。


       <手記>
           大田切城は、大田切川河岸上の典型的な崖端的の城です。城域の大部分が崩落しており、
          南辺の空堀と、東西辺の堀のごく一部が残るのみとなっています。そのため、南北の奥行きは
          不明ですが、東西方向の堀の長さを鑑みるにさほど規模は大きくなく、また周辺に他の遺構が
          みられないことから単郭であったものと推察されます。
           平安末の館城としてあり得べき選地ではありますが、やはり伊那谷における平家方の拠点で
          あったとすると狭小に過ぎるような気がするのが引っ掛かります。ほとんどが崩落していること
          から、時間の経過を指摘して友則の居館跡とする意見もあるようですが、伊那谷には明らかに
          戦国時代まで使用されていたとみられる城跡でも、大部分が崩落しているところは少なくあり
          ません。
           結局のところ判断材料に乏しく、友則の館跡かどうかは否定も肯定もできないでしょう。他に
          考えられる可能性としては、対岸の小田切城主小田切氏や、南東へ下った上穂城の上穂氏
          との関連が指摘できます。両氏とも弘治二年(1556)に他の上伊那の国人と武田晴信(信玄)
          反乱を起こし、敗れて狐島(伊那市)で処刑されています。そのどちらかの分家が大田切城に
          拠っていたとしても、不思議ではないでしょう。

           
 大田切城跡を望む。
 中央奥に標柱が見えます。
城址標柱。 
 西辺の堀跡。
南辺の堀跡。 
 南東隅の堀跡。
東辺の堀の崩落箇所。 
 郭内の残存部分。


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