上穂城(うわぶ)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 上穂氏
 遺構  : なし
 交通  : JR飯田線駒ヶ根駅徒歩20分


       <沿革>
           土豪上穂氏の居城とされる。上穂氏は南信の名族・片切氏の一族ともいわれるが、系譜は
          詳らかでない。
           天文十四年(1545)、武田晴信(信玄)によって高遠城福与城が相次いで攻め落とされる
          と、上穂氏も武田氏に降ったものとみられる。弘治二年(1556)、川中島の戦いの隙を突いて
          上伊那の旧国人が蜂起したが、反乱はまもなく鎮圧され、首謀者のうち8人が狐島(伊那市)
          で処刑された。そのなかに上穂伊豆守重清の名がみられる。
           だが上穂氏はその後も存続し、武田家重臣秋山虎繁の同心に付けられ、片切氏・赤須氏・
          飯島氏、大島氏と共に「春近五人衆」と呼ばれた。天正十年(1582)の織田信長による武田
          攻めで滅んだとみられるが、詳しい経緯は不明である。


       <手記>
           今日の大法寺周辺が上穂城跡とされています。緩やかな台地縁に位置していますが遺構
          はみられず、境内の縁起に「上穂城址の一角」とだけ書かれているのが、現地での城跡に
          関する唯一のものです。
           寺のひとつ南側の旧家は台地の張り出し部になっており、こちらも曲輪ではないかと思わ
          れるのですが確認は難しいでしょう。北端は墓地に沿って流れる小沢とみられます。
           至って古い時代の館城の選地で、他の春近五人衆の城と比べても大きく見劣りする規模
          であったと推察されます。あるいは、狐島の一件があるため、武田氏を刺激しないよう配慮
          した結果かもしれません。ちなみに、南へ500mほどのところに同じく上穂氏の築城とされる
          大北城があります。

           
 上穂城跡とされる大法寺。
境内の縁起。 
現地で上穂城に触れている唯一のものです。 
 大法寺墓地。
北端とみられる小沢。 


BACK