置塩城(おじお)
 別称  : 小塩城、藤丸城
 分類  : 山城
 築城者: 赤松政則
 遺構  : 曲輪、石垣、土塁、虎口
 交通  : JR姫路駅または山陽電鉄山陽姫路駅から
      バスに乗り、「宮置」下車徒歩60分


       <沿革>
           播磨国はじめ数か国の太守であった赤松氏は、嘉吉元年(1441)に赤松満祐が嘉吉の乱を引き
          起こしたため、幕府の追討を受け一時没落した。長禄元年(1457)、上月満吉はじめ赤松家旧臣が
          後南朝を襲い、二宮を殺害して神璽を奪取した(長禄の変)。この功により、満祐の大甥にあたる
          政則に赤松家再興が許され、加賀半国守護に任じられた。
           応仁元年(1467)に応仁の乱が勃発すると、東軍に属した政則は西軍の山名氏が守護を務めて
          いた播磨へと乱入し、実力で旧領を奪回した。備前・美作も回復した政則は、文明元年(1469)に
          置塩城を築いて居城とした。その後、一族の反乱鎮圧や山名氏との戦いに明け暮れつつも、備前
          守護代浦上則宗らの活躍もあり、戦国大名赤松氏の最盛期を築いた。
           政則が明応五年(1496)に急死すると、則宗ら重臣衆によって赤松氏庶流の七条政資の子義村
          が擁立され、政則の娘・小めしを娶って跡を継いだ。義村は親政を目指して則宗の跡を継いだ村宗
          と対立し、浦上氏の居城三石城を攻めたが、敗れて隠居させられ、村宗によって大永元年(1521)
          に暗殺された。
           家督は義村の子政村が継いだが、半ば独立した村宗との対立は続き、置塩城を逐われて美作の
          新庄山城へ身を寄せたこともあるとされる。享禄四年(1531)、管領細川高国の要請を受けた村宗
          と政祐(政村から改名)は、一時的に和解して共に摂津へ進軍した。だが、神呪寺に布陣した政祐
          は細川晴元方に寝返って村宗・高国軍を背後から急襲し、両者を死に追いやった(大物崩れ)。
           これによって浦上氏は弱体化したものの、家中をまとめ上げるまでには至らず、天文七年(1538)
          に尼子氏が播磨へ侵攻し、重臣の小寺則職・明石正風が寝返ると、政祐は淡路へ逃れた。尼子軍
          が同九年(1540)に撤退すると、政祐は置塩城へ復帰し、将軍足利義晴から偏諱を受けて晴政と
          称した。永禄元年(1558)八月、晴政は小寺政職らに擁立された嫡男義祐に置塩城を逐われた。
          しかし、晴政は隠遁せず娘婿の龍野城主赤松政秀を頼って対抗したため、ただでさえ権威の失墜
          していた赤松家はさらに二分された。元亀元年(1570)、政秀は戦国大名化した浦上宗景に滅ぼ
          され、義祐は同年に子の則房に家督を譲って天正四年(1576)に死去した。
           翌天正五年(1577)、則房は織田信長の命で山陽路に進出した羽柴秀吉に降伏した。同十三年
          (1585)に秀吉が四国を平定すると、則房に阿波国住吉城1万石が与えられた。住吉領については
          加増分とする説と、置塩領は召し上げられたとする説がある。後者であれば、置塩城はこのときに
          廃城となったとみられる。
           則房の子則英(同一人物とも)は、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで西軍に与し、戦後に自害を
          命じられた。前者の説であれば、置塩城は関ヶ原の戦いまで存続した可能性がある。


       <手記>
           置塩城は比高300mのお椀を伏せたような形の城山にあり、南西麓から登山道が付いています。
          国史跡ということもあってか、登山口にはとても立派なパンフレットも用意されています。「置塩」の
          読みは明治以降「おきしお」となったようで、古くは「小塩」表記もみられることから「おじお」だった
          と考えられているようです。
           登っていくと、一丁・二丁…と振られた石柱が続いていて、十で頂上かと思ったら単に登山口から
          の距離を示しているようでした。結局十八丁まであり、十ではまだ半分ほどと、無駄に苦しい思いを
          してしまった感があります。お金をかけてまで建てる必要があったのでしょうか^^;
           登りついた先は二の丸南東尾根のX曲輪群で、その最上段は茶室跡と伝えられているそうです。
          曲輪群には断片的に石垣が残り、最上段の東辺には虎口、その奥に出曲輪がみられ、やはり石垣
          が用いられています。
           とくに、二の丸南西尾根のY曲輪群には「大石垣」と呼ばれる石塁がありますが、城内には同規模
          の石垣が数か所見受けられ、ここが殊更巨大というわけでもありません。ただ、用いられている石材
          がほかより大きいので、そう名付けられているのでしょう。他方で、この大石垣は位置的に土留めと
          いう感じでもなく、防備に役立っているわけでもありません。外を向いているので麓からの視覚用の
          装飾的なものだったのかな、とも思われます。
           置塩城といえば、石垣と並んで特異な縄張りが大きな特徴です。城山の頂部は二の丸と三の丸、
          そしてW曲輪と呼ばれる3つのエリアに区画分けされ、3者間は堀というより通路というべき堀底道で
          切り分けられています。さらに、上の地図でも明らかなように、城山からひとつ上手の別峰に本丸が
          独立しています。おそらく後で増築されたものと推測され、こちらにも石垣や腰曲輪群が見られるの
          ですが、本丸部分が拡張されたからといって防御力はさほど上がっていないように感じられるのも、
          気になる点です。
           伝二の丸などからは庭園遺構が見つかっており、城山の上には純粋な戦闘空間というより優雅な
          屋敷などが営まれていたようです。たしかに赤松政則はかなりの文化人だったようなので、権威が
          ある程度確立されていた政則の代には、それでよかったのでしょう。義村以降、播磨国内が乱れて
          行くにつれて、ナメられないように武骨な櫓などを具えた本丸が必要となったのではないかと、私見
          ながら考えています。

 置塩城跡遠望。
 中央が城山。ひとつ右手が本丸跡。
登山口。 
 二の丸南東尾根のX曲輪。
X曲輪東辺の虎口跡と石垣。 
 虎口跡前方に延びる帯曲輪。
虎口後方山裾の出曲輪と石垣。 
 X曲輪西辺の土塁。
土塁外側の石垣。 
 X曲輪群2段目。
2段目から3段目を見下ろす。 
 2段目の石垣。
二の丸を見上げる。 
 その脇の石垣。
二の丸南西のY曲輪。 
 Y曲輪群2段目。
大石垣。 
 Y曲輪群からの眺望。
 奥にうっすら海が見えます。
二の丸と三の丸の間。 
堀というより通路となっています。 
 伝三の丸のようす。
伝三の丸の虎口状開口部。 
 伝三の丸から1段下の曲輪を俯瞰。
伝二の丸の腰曲輪。 
 同じく帯曲輪。
伝二の丸のようす。 
 伝二の丸の上下段を別つ土塁。
伝二の丸下段外縁の土塁。 
 W曲輪のようす。
W曲輪の土塁と帯曲輪。 
 帯曲輪の虎口と石垣。
帯曲輪下段の石垣。 
 W曲輪と本丸の間の石垣。
 崩れてしまったようです。
本丸西側の腰曲輪。 
 同じく南東尾根の腰曲輪。
本丸の石垣。 
 同上。
本丸のようす。 
 本丸から城山を望む。


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