住吉城(すみよし)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 山田陸太夫か
 遺構  : 塚
 交通  : JR高徳線吉成駅徒歩25分


       <沿革>
           三好家臣山田陸太夫の城であったとされる。陸太夫は近江国山田の国人であったと
          いわれるが、いつごろ三好家臣となったのかは定かでない。また、住吉城を築いたのが
          陸太夫であったかという点も詳らかでない。
           天正十三年(1585)に豊臣秀吉が四国を平定すると、赤松則房に住吉城1万石が与え
          られた。赤松氏の居城は播磨国置塩城にあり、住吉領は加増分とする説と、このときに
          置塩領は召し上げられたとする説がある。
           則房の子則英は、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで西軍につき、戦後に自害を命じ
          られた。ただし、則房と則英は同一人物とする説もある。則房は別に徳島城主蜂須賀家
          家老の賀島長昌の子政慶(細山帯刀)を養子としていたともいわれる。ただし、政慶は
          蜂須賀家から別個に牛岐城1万石を与えられていることから、いずれにせよ住吉城は
          関ヶ原の戦いを以て廃城となったものと推察される。


       <手記>
           集会所を兼ねた八坂神社の鳥居脇に、住吉城址の説明板があります。城の中心は、
          その南西の住宅等に囲まれた田畑のあたりで、その中に城主を祀る「城神さん」と呼ば
          れる小塚があります。
           現状、城にまつわるものはこの城神さんくらいしか見られません。東辺と思われる山田
          味噌醸造の前にも、一応「住吉城址」と書かれた看板が立っています。
           正法寺川に面していることから、矢上城などと同じく勝瑞城の外郭の守りを担っていた
          ものと考えられます。それなりに重要な城だったと思われるのですが、外様の陸太夫に
          それを任せるあたり、三好氏の人材観の特徴が表れているようにも感じます。

           
 八坂神社前の説明板。
城神さんの小塚を望む。 
 城の中心部の現況。
山田味噌醸造前の「住吉城址」の看板。 


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