三石城(みついし)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 伊東宣祐か
 遺構  : 曲輪、石垣、土塁、堀、井戸
 交通  : JR山陽本線三石駅徒歩30分


       <沿革>
           元弘三年(1333)、地頭の伊東大和二郎宣祐によって築かれたと伝わる。宣祐は姓名から工藤
          伊東氏の一族とみられ、『太平記』に南朝方として名がみられるが、その後の動静は不明である。
           貞治四/正平二十年(1365)、赤松則祐が備前守護となると、守護代浦上宗隆が城主となった。
          浦上氏は紀長谷雄の後裔で、播磨国浦上荘(たつの市)を本貫とするとされる。
           嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱で赤松氏が一時没落すると、浦上氏も身を潜めていたとみられる。
          長禄二年(1458)に赤松政則が幕府から赤松家再興を認められると、浦上則宗も三石城主に復帰
          した。政則が山城守護に補されると、則宗はその守護代となって活躍している。
           文明十六年(1484)、金川城主松田元成が山名氏に通じて福岡城を襲った(福岡合戦)。政則は
          逆に山名氏の領国但馬へ攻め入らんとして大敗し、備前国内は動揺して福岡城も陥落した。元成
          は三石城へ進軍しようとしたところを浦上軍に攻められて敗死したため、政則の権威が失墜して、
          相対的に則宗が赤松家中の実権を握った。
           則宗の子はみな戦死していたため、浦上家の家督は大甥にあたる村宗が継いだ。赤松政則の
          跡は傍系から婿養子に入った義村が幼くして継いだため、村宗と御着城主小寺則職が宿老として
          家中を差配していた。成長した義村は、状況に不満を覚えて親政を目指したが、反発した村宗は
          永正十五年(1518)、三石城に引き籠って公然と反旗を翻した。義村はむしろ好機として三石城を
          攻囲し、城内からは逃亡者が相次いだ。しかしながら、浦上家臣宇喜多能家の督戦や、赤松氏の
          直接的な支配を嫌った備前国人らの抵抗により、ついに義村勢は敗退を余儀なくされた。能家は
          則宗の代から幾度となく主君の危機を救ってきた名将であり、謀将宇喜多直家の祖父にあたる。
          この一戦により俄然優勢となった村宗は、永正十七年(1520)に義村を隠居に追い込み、翌年に
          暗殺した。
           村宗は義村の遺児政村(後の晴政)の後見人となって半ば戦国大名化したが、享禄四年(1531)
          に管領細川高国の援軍として摂津へ進軍した際、裏切った政村に背後から襲われ、討ち死にした
          (大物崩れ)。政村にとっては父の仇討ちであり、赤松家の実権を取り返すための行動であったと
          みられている。最も早い説ではこの村宗の横死により、三石城は廃城となったとされる。
           村宗の跡は幼少の嫡男政宗が継ぎ、一族の浦上国秀が後見となった。成長した政宗は室山城
          へ居城を移し、三石城は弟の宗景に預けたともいわれる。
           天文二十年(1551)、尼子氏が備前へ侵攻すると、これと結ぼうとする政宗と、毛利氏に付いて
          対抗すべきとする宗景とで対立した。同二十三年(1554)、ついに袂を別った宗景は、天神山城
          築いて政宗から自立を図った。三石城の廃城はこのときともいわれるが、確証はない。


       <手記>
           西国街道三石宿の背後にそびえる比高200mほどの城山が、三石城跡です。三石は江戸時代
          下葉から耐火煉瓦やガラス繊維などの原料となる蝋石の採掘が盛んだそうで、谷間の町に工場
          がひしめき合っています。それに付随して駐車場もあちこちにあるのですが、訪問者向けに開放
          されているところは1つも見つかりませんでした。宿場の趣もいくらか残っているだけに、たいへん
          残念で勿体なく思います。
           上の地図の城山から背後にだらだら延びる林道の、310mとあるあたりに駐車場があるらしいの
          ですが、いくら何でもルートとして冗談ではありません。なので私は、線路とバイパスICの間にある
          運動公園の駐車場を使わせてもらいました。登城路は上の図の通り南方尾根筋に延びています
          が、先端の墓地ではなく、尾根先東麓の石油店の脇が入り口となっています。
           登山口さえ見つけられれば、後は迷うことはないでしょう。途中、息つぎ井戸を経て右手に逸れ
          ると千貫井戸があります。峰先を大きく回りこむうえ、行き止まりで戻ってくるため寄り道なのです
          が、岩盤をくりぬいた底なしといわれる井戸はその労に値するだけの見応えがあります。
           さらに主城域手前でもう1か所分岐がありますが、これはどちらかから登ってもう一方から下りれ
          ばよいので、どっちを選んでも問題ありません。三石城の一番の見どころは大手門跡の石垣で、
          分岐を直進すれば大手となります。ただ、折れて斜面を登っても、石垣で固められた腰曲輪が見ら
          れます。城内で石垣が残っているのはこの2か所なので、どちらから登ってもオイシイ思いができる
          のも三石城の魅力でしょう。
           腰曲輪の上は細長い三の丸となっていますが、こちらには石垣は用いられていません。腰曲輪は
          櫓台という感じでもなく、大手曲輪のほかになぜここだけ石垣になっているのか、私にはとんと理由
          が思いつかず不思議のひとことです。
           大手曲輪は出枡形状になっていて、入り口を絞って入りにくくするなどの工夫も見られます。その
          脇には溜池の跡と思しき地形がある一方、三の丸や池の上の帯曲輪にも、井戸跡とされる箇所が
          散見されるのも特徴の1つです。溜池はかなり大きく十分な水が溜められたであろうに、さらに井戸
          何か所も設けているというのも、いかなる理由によるものか容易には想像がつきません。
           本丸は大きく2段になっていますが、その境目ははっきりしていません。また、外周を土塁で囲繞
          されていたようで、今も低い痕跡となって残っています。本丸背後には岩盤堀切があり、そこから
          大手曲輪へ深い横堀が延びています。
           堀切の向こうには鶯丸という出丸があり、やはり西側に横堀が認められます。鶯丸の背後には、
          腰曲輪と堀切があり、その先は自然地形のようです。
           三石城は、なんといっても大手曲輪の石垣が印象的です。その技術と規模、工夫を鑑みるに、
          少なくとも宗景の代まで存続していたことは明白でしょう。そもそも、三石は後に西国街道の宿場
          となっており、船坂峠や帆坂峠を越えれば播磨国という交通の要衝にあります。加えて、対立して
          いた政宗や赤松氏の勢力圏がこちら方面なのですから、天神山城の最有力支城として重視され
          続けたと見るのが普通ではないでしょうか。ともすれば、宇喜多氏によっても重要な拠点であった
          とも推察され、廃城は織豊時代まで下るのではないかとも考えられます。

           
 三石城跡遠望。
南西尾根先端近くの第二見張所。 
 息つぎ井戸跡。
千貫井戸。 
 三の丸下の腰曲輪の石垣。
三の丸下からの眺望。 
 三の丸のようす。
 右手は土塁。
三の丸西下の馬場跡 
 馬場と大手の間の溜池跡。
大手門跡。 
 大手曲輪裏手の石垣。
同上。 
 大手曲輪上の帯曲輪の井戸跡。
二の丸の切岸。 
 二の丸のようす。
本丸下段から上段を望む。 
 本丸下段外縁の土塁跡。
本丸上段。 
 同上。
本丸上段外縁の土塁跡。 
 本丸背後の岩盤堀切。
鶯丸。 
 鶯丸西辺の横堀。
鶯丸先端側の腰曲輪。 
 同じく空堀。
岩盤堀切から大手へ続く横堀と土塁。 


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