米沢城(よねざわ) | |
別称 : 松ヶ岬城、舞鶴城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 長井時広か | |
遺構 : 堀、土塁、櫓台、虎口 | |
交通 : JR奥羽本線米沢駅からバスに乗り、 「上杉神社前」下車すぐ |
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<沿革> 出羽国置賜郡長井荘の地頭となった大江広元の次男時広は、荘名をとって長井氏を 称した。米沢城は、時広によって築かれたのがはじまりと伝えられるが、確証はない。 そもそも狭義の長井荘は、置賜郡北西部の長井盆地にあったとされる。一方で、広元 の地頭職は置賜郡全体に及んでいたともいわれる。少なくとも、長井氏のもとで長井荘 が置賜郡そのものを指すようになったとされる。 元中二/至徳二年(1385)、長井氏は置賜郡に侵攻した伊達政宗(9代・大膳大夫) に攻め滅ぼされた。伊達氏は当初置賜郡支配の拠点を高畠城に置いたため、このとき 米沢城が存在したかどうかは、やはり確証がない。 天文十七年(1548)、天文の乱を経て家中を掌握した伊達晴宗は、桑折西山城から 居城を米沢城へ移した。したがって、城はこのときまでには築かれていたことになる。 晴宗の孫の政宗(17代・藤次郎)は、天正十七年(1589)に会津の蘆名氏を滅ぼし、 その居城である黒川城に移った。しかし、翌十八年(1590)には豊臣秀吉の奥州仕置 により、会津領などを没収され米沢城に戻った。この間は、政宗の叔父の梁川宗清が 米沢城の留守居を務めていたとされる。 翌天正十九年(1591)、政宗は前年に発生した葛西大崎一揆を扇動した疑いにより、 長井を含む6郡を没収され、代わりに大崎・葛西氏旧領を与えられ岩出山城へ移った。 政宗の旧領は会津領主の蒲生氏郷に与えられ、米沢城には重臣蒲生郷安が7万石で 入った。 氏郷の子秀行は家中の対立を抑えきれず、慶長三年(1598)に郷安が渡利良秋を 誘殺したことにより、緊張はピークに達した。これを受けて、秀吉は秀行を宇都宮への 減転封に処し、蒲生旧領には上杉景勝が封じられた。米沢城には、景勝の腹心直江 兼続が6万石で入城した。 慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いにより、上杉家は30万石に減封され、居城も米沢 に移された。それまでの米沢城は堀が一重のみの簡素な館城であったとされ、移入 する膨大な家臣を受け入れるため、10年以上をかけて城と城下町の整備が図られた。 寛文四年(1664)に上杉家は表高15万石に減封されたが、米沢藩は13代を経て明治 維新を迎えた。 <手記> 仙台生まれの私としては、米沢城といえば伊達政宗なのですが、現地ではほぼ上杉 一色なのが印象的でした。本丸南東隅には上杉謙信を祀った御堂の跡があり、市内 でも謙信の名をよく目にしたのですが、少なくとも謙信自身は米沢に縁もゆかりもない んですよね。その御堂跡の麓に、ひっそりと「伊達政宗公生誕の地」碑が佇んでいた のが印象的でした。 伊達氏時代の居城については、米沢城ではなく舘山城とする説も近年呈されている ようです。発掘調査で大規模な遺構が検出されたことが論拠のようですが、私はこの 説には疑問です。理由は、舘山城の項をご覧いただければと思います。 現在の米沢城は本丸部分のみきれいに残っています。直江氏までの主城域はほぼ この本丸の範囲とみられているそうですが、せっかく伊達・上杉と人気の戦国大名2氏 の居城となった場所なので、少しずつ発掘や復元など整備事業が進められればなぁと 感じました。 |
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本丸南東隅のようす。 | |
本丸南辺の菱門橋。 | |
本丸南辺の濠。 | |
本丸南西隅のようす。 | |
本丸北西隅のようす。 | |
本丸北西の西門跡。 | |
本丸北東隅の御三階櫓跡。 | |
上杉神社。 | |
本丸南東隅の上杉謙信御堂(祠堂)跡。 | |
本丸北東隅の御三階櫓跡基壇。 |