小見野氏館(おみのし)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 小見野盛行
 遺構  : 不詳
 交通  : 川越駅または鴻巣駅からバスに乗り、
      「徒歩橋」下車徒歩3分


       <沿革>
           武蔵七党の1つ児玉党の庶流小見野氏の居館とされる。『児玉党系図』によれば、小見野氏は
          児玉弘行の孫浅羽行業の子の盛行にはじまる。『吾妻鏡』の建久元年(1190)十一月の条には、
          源頼朝の上洛における随行の1人として、小見野四郎の名が見える。
           小見野四郎と小見野盛行は同一人物とみられているが、以降の小見野氏の動向については
          定かでない。


       <手記>
           下小見野の法鈴寺が、小見野氏の館跡とされています。小見野は今でも地図を見ればわかる
          とおり、北から東に市野川が流れ、その他を低湿地に囲まれた浮島のような細長い微高地です。
          川のすぐ対岸には大串重親の、南東4kmほどのところには美尾屋広徳のがあったとされ、
          平安末期のそれほど変わらない時期に、この地域に入植した武士の居館の1つと推察されます。
          盛行以降の事蹟が伝わっていないことから、開発領主の一時の住まいに過ぎず、比較的早期に
          使われなくなったものと思われます。
           法鈴寺の境内はこざっぱりとしていて、城館跡の雰囲気は感じられません。東辺および南東隅
          に土塁状の段差がありますが、遺構かどうかは怪しいところです。この段差は北東隅でご丁寧に
          鬼門除けのような隅欠けとなっているので、仮に土塁跡だったとしても、鎌倉時代からはだいぶ
          下ってからのものでしょう。
           その東側に、もう1つ水路をともなった段差と低地の田があります。段差のラインはゆるやかに
          カーブを描いていて、昔からの地形であると考えられます。もし法鈴寺近辺に館があったとすれ
          ば、直感的にはこちらの段差が東端であった可能性の方が高いのではないかと、個人的に考え
          ています。
           ちなみに、一部の資料では寺名が「法錦寺」となっていますが、正しくは上述のとおり「法鈴寺」
          です。

           
 法鈴寺。
境内南東隅の土塁状の段差。 
 同段差の北東の隅欠け。
境内東方の段差と低まった田。 
館の東端のラインか。 


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