御幣山砦(おんべやま) | |
別称 : 大谷氏館、大谷城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 大谷氏か | |
遺構 : 削平地 | |
交通 : JR東海道線・小田急江ノ島線藤沢駅徒歩10分 | |
<沿革> 『新編相模国風土記稿』によれば、北条家臣大谷帯刀左衛門公嘉の城跡とされる。大谷氏 の出自についてや、築城時期などは不明である。 『北条記』によれば、公嘉は永禄十二年(1569)の武田信玄の小田原攻めでは小田原城に 籠城し、御幣山砦は武田勢に攻め落とされたとされる。また、天正十八年(1590)の小田原の 役に際して上野国西牧城を守り、討ち死にしたとされる。 一次史料である『小田原衆所領役帳』には、御幣山の南、柏尾川南岸の川名村に、「大谷 彦次郎」が所領を得ている。また、『記稿』には川名村字殿屋敷について「大谷筑前某宅址」 とする記事がみられ、同項内で筑前を彦次郎の孫と推察している。彦次郎および筑前と帯刀 公嘉の関係については不明である。 <手記> 今は藤が岡と呼ばれている藤沢駅北東の丘陵一帯が、かつて御幣山と呼ばれていました。 地名としての御幣山はすでに失われ、御幣山自治会や藤が岡北麓の御幣公園などに、僅か に名を残すのみです。 『日本城郭大系』所収の、赤星直忠氏原図『鎌倉市史』考古編に拠る城跡要図によれば、 現在の藤沢団地あたりが狭義の御幣山で、これと御所谷と呼ばれる小谷戸を挟んだ東側の 狐塚と呼ばれるピークの2つが、おおよその城域とされています。 どちらもすっかり宅地化されており、旧地形を推し測るのも難しい状況です。ですが、狐塚の 南西斜面に1ヵ所、ほぼ間違いなく削平地跡であろうと思しき平場が見受けられました。ただ、 当該箇所は道路脇のフェンスの外側にあり、斜面は危険区域に指定されているということで、 実際に下りたって確かめることはできませんでした(上の地図の小さい緑丸付近)。おそらく、 ほぼ唯一の明確な遺構であると思われます。狐塚の南は尾根の鞍部となっており、あるいは 堀切があったとも考えられますが、今では検証不能です。 『藤沢市史』では、御幣山砦を玉縄城の支城とみているようですが、私はこの見方には疑問 を感じます。城域が赤星氏原図の指摘する範囲(上の地図の広い緑丸)にとどまっていたと すると、拠点城の支城という純粋に防衛用の城とみるには少々不自然です。というのも、現在 の藤が岡丘陵は、境川とその支流滝ノ川に三方を囲まれた舌状地形を成しています。戦闘用 の城を築くのであれば、御幣山の北西続きにあたる舌状台地の先端付近をこそ主城域にする のがセオリーであると考えられます。また、狐塚の峰続きの南東にもう1つピークがありますが、 こちらの方が狐塚よりもやや高所に位置しています。御幣山砦が玉縄城の支城という位置づけ であれば、やはりこの峰も城域に含まれているべきだと思われますが、前掲の縄張り図には そのようには描かれていません。したがって、純粋な戦闘用の城塞とみるには、御幣山砦は 規模や縄張りの面で難があるように思われるのです。 ここで注目すべきは、御幣山と狐塚の間に位置する御所ヶ谷であると思います。すなわち、 「御所」の字から鑑みるに、この谷戸には大谷氏の居館が営まれており、御幣山砦はあくまで この居館に付随する後背の小城砦であるとみるのが、妥当であると考えます。もちろん、玉縄 城が狙われれば、衛星的城砦群の1つとして防衛ラインの一端を担ったのでしょうが、第一義 的には、在地領主の居館とその背後の備え程度に考えた方が、しっくりいくように思うのです。 |
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狭義の御幣山とされる藤沢団地を望む。 | |
御所ヶ谷公園。 | |
狐塚脇の斜面に残る削平地。 見づらいですが、中央付近に辺縁のラインが見えます。 |
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狐塚付近現況。 | |
狐塚と峰続き南東のピークとの間の鞍部。 堀跡か。 |