鬼場城(おにば)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 矢ヶ崎氏
 遺構  : 曲輪跡、土塁、堀
 交通  : JR中央本線茅野駅よりバス
       「鬼場」バス停徒歩5分


       <沿革>
           諏訪氏支族矢ヶ崎氏(矢崎氏)の居城とされる。矢ヶ崎氏は、諏訪貞方の弟敦家を祖と
          するとされる。矢崎郷を領し、当初は齢松山城を居城としていた。鬼場城は、その支城と
          して築かれたが、後に齢松山城から居城を移したものとみられている。ただし、築城年代
          や移行年代は不明である。
           応永七年(1400)の大塔合戦では、諏訪本家が参戦していないなかで、有賀美濃入道
          の指揮のもと、矢ヶ崎氏も国人連合軍に加わっている(『大塔物語』)。
           その後の矢ヶ崎氏については詳らかでない。天文十一年(1542)に諏訪惣領家が武田
          晴信(後の信玄)に滅ぼされると、鬼場城は武田氏の城となったともいわれるが、詳細は
          不明である。


       <手記>
           鬼場城は、永明寺山の南東隅に上川に接して突き出した支峰にあります。上川上流域
          の山浦(または山裏)地域の頸部を抑える要衝に位置しています。同じ永明寺山の支峰
          上には、ほかに齢松山城や上原城桑原城などがあります。とくに、諏訪惣領家の居城
          上原城と峰続きであることは、大きな意味をもっていると思われます。
           城へは、南東麓の県道脇か城山団地の北東隅から登ることができます。城山団地から
          だとほとんどフラットにたどり着くことができます。
           山頂の主郭とその東側の二の郭、そして主郭下をめぐる帯曲輪から成っていて、主郭
          背後にあたる西側には、尾根筋に2条の堀切が残っています。他の諏訪氏系の城と同様
          の構造で、規模自体はそれほど大きくありません。武田氏時代にも継続使用されていた
          ともいわれていますが、同氏による改修を受けているようすは見受けられず、実際には
          諏訪惣領家滅亡以降は打ち捨てられていたのではないかと推測されます。

           
 鬼場城近望。
鬼場城主郭のようす。 
 主郭から二の郭を望む。
主郭背後の堀切。 
 主郭背後、2条目の堀切。
おまけ:竪堀脇に佇んでいたカモシカ。 


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