小野路城(おのじ)
 別称  : 結道城
 分類  : 山城
築城者 : 小山田重義
 遺構  : 曲輪、土塁、井戸跡等
 交通  : 小田急線鶴川駅よりバス
       「小野神社前」下車徒歩20分


       <沿革>
          小野路城は、西1kmほどのところにある小山田氏の本拠小山田城の支城として築かれたとされる。
         小山田氏は、坂東八平氏の1つ秩父氏の一族で、秩父重弘の次男有重が小山田別当を称したことに
         はじまる。有重は承安元年(1171)に小山田城を築き、承安年間(1171〜74)には小野路城を築いて
         次男重義を配したとされる。小山田氏はその後、有重の三男稲毛重成が讒訴の罪で誅伐されたことで
         没落した(畠山重忠の乱)。
          『新編武蔵国風土記』には小野路城についての記載はないが、「油井領ノヨシ役帳ニ見ユ 油井領
         ハ八王子城主北条陸奥守氏照カ領知ナルヘシ」とある。すなわち、戦国期には北条氏照ないし氏照
         が養子として入った大石氏に属していたと考えられる。

          
       <手記>
          小野路の地名は、地元の伝承によると、小野小町を輩出した古代小野氏の牧領であったことにちなむ
         そうで、街道の辻にある小野神社や、城中の小町井戸といった古跡があります。この小町井戸は、沢や
         滝を形成し夏場も涸れることがないということで、飲料水や天然の堀切として、重要な役割を果たしたと
         想像されます。
          城址へは、小野神社の脇を山中へ進み、正面の頂を目指して歩きます。途中、万松寺を過ぎた辺りで
         標識に従い脇へ逸れ、山腹の台集落を通って尾根筋を登ります。然程急ではなく、20分ほどで本城域
         に着きます。本丸と、堀切を隔てて同じ高さの副郭があり、その周囲を幾つかの堀と曲輪が巡る並郭式
         に近い構造をしています。この構造は、文明八年(1476)の長尾景春の乱に際し、扇谷・山内両上杉
         の防衛拠点となった小山田城と似ています。そのため小野路城も、このときまでは使用されていた可能
         性も考えられます。
          眺望は、やはり小野路方面に開けています。同じ尾根筋南方の台集落にある、東越八幡跡と称される
         頂部削平地が、もしかしたら南方への眺望を補っていた可能性も考えられます。
          小野路は、古くから鎌倉往還の宿場になっていたところで、峰ひとつ隔てて多摩ニュータウンが開けて
         いるにもかかわらず、ひなびた山間の宿場町の面影を留めています。城郭見学だけではなく、都会から
         ちょっと喧騒を忘れた散策をするにももってこいだと思います。

          【追記】小野路城主城域の北東に延びる尾根には、馬場(ばんば)の小字が残っています。日を改めて
         このあたりを探索してみました。まず、上の地図の真ん中の緑丸地点にある小ピーク(ここの小字は城山)
         の藪のなかに、二重の土塁跡がみられました。外側のものは、すぐ近くまで耕地が迫り、土塁上に生え
         ている樹木もまだ若いので、戦後に削られたものかもしれません。ですが内側のものは、藪に埋もれて
         いるうえに生えている樹木も太めなので、少なくとも戦前のものと思われます。この北東小ピークの眼前
         には小字馬場に属する緩やかな斜面が広がっています。丘自体の要害性はほとんどないので、あるい
         はこの斜面に古代官牧から続く牧場があり、その運営のための施設があったのかな、とも直感的に感じ
         られました。
          小字馬場の中心部には、現在も牧場があります。その牛舎の東に続く尾根にある畑は、周囲が切岸
         状に削られ、東側は堀底道になっています。さらに畑の南辺には、鉤字の折れと墓地となっている中段
         スペースがあり、曲輪のような様相を呈しています。地元の方の話では、この畑は昔から形が変わって
         おらず、堀底道は馬を通すのに使っていたとのことです。畑の南には万松寺谷の谷戸が望め、また東麓
         には小野路城主城域からは直接掌握できない小野路宿を見下ろすことができます。
          これらすべてを小野路城の城域とすると、鎌倉時代の城としては巨大に過ぎてしまうので、本当に城の
         遺構であるかどうかは当然留保が必要と思われます。ただ、内奥にあって不便な小野路城が後北条氏
         の時代まで現役であったとは少々考えにくく、いずれかの時期に小野路宿と街道掌握の役目が東側に
         スライドしていったのではないかな、とも感じられます。

 小野路城遠望。
 東越八幡跡。小野路城とは続きで先端に近い嶺の途中にある頂部削平空間であり、城との関連も十分考えられます。
 主郭部。北側(画面左)を土塁が囲み、南側(画面右)にはなだらかな
 斜面と腰曲輪が広がっています。
 
 小町井戸。その名の通り、小野小町が使用した伝説に因むそうです。城の井戸としても使われていたものと思われます。
 副郭部の土塁と削平地跡。
主郭部土塁。   
 小字城山の北東小ピーク。
小ピークの外側の土塁状地形。 
 同上。
同じく内側の土塁状地形。 
 同上。
小ピーク周辺からの眺望。 
 小字馬場の畑地の切岸状地形。
同じく堀状地形。 
 同じく折れと中段削平地。


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