大築城(おおづく)
 別称  : 大津久城
 分類  : 山城
 築城者: 上田朝直か
 遺構  : 曲輪、堀、土塁、虎口
 交通  : 東武東上線/JR八高線越生駅
      からバスに乗り、「麦原入口」下車
      徒歩60分


       <沿革>
           『新編武蔵国風土記稿』椚平村の項に、「大津久城」として記述が見られ、天正年間
          (1573〜92)に後北条氏家臣の松山城主上田安独斎朝直によって築かれたとされる。
          慈光寺の寺伝によれば、同寺は朝直によって攻められ、伽藍のほとんどが焼亡したと
          される。一般には、この慈光寺攻めに伴って築かれたものと考えられている。
           他方で、応永年間(1394〜1428)に吾野左衛門尉憲光によって築かれたとする伝承
          もある。法恩寺(越生町)の『年譜録』には、文安三年(1446)の寄進の記録として吾那
          左衛門尉憲光の名がある。吾那氏は児玉党一族越生氏の庶流といわれるが、詳しい
          系譜は定かでない。より大築山に近い字堂山の最勝寺にも「吾那」の文言が見られ、
          周辺が室町時代前期に吾那(吾野)氏の所領であった可能性は高いといえる。ただし、
          大築城が吾那氏の城であったという証拠はない。


       <手記>
           大築城は、越生町側の赤坂川とときがわ町側の氷川の上流に挟まれた、円錐形の
          急峻な山上に築かれています。南東中腹には麦原、北西の川向かいの山肌には椚平
          の集落がありますが、どちらも相当に山深いところに家々が建っています。
           氷川沿いの道には「大木戸」が建てられていて、さらに渓流の道を遡ったところから
          登山道があります。城山の全景を撮るのも椚平集落からの方が良いので、こちらから
          登ろうとしたのですが、台風の影響で通行不能とのことでした。麦原からも登れますし、
          むしろそちらの方が比高差もなく道も緩やかなようです。とはいえ、椚平から麦原へ
          行くには、車道が全然ないので、なんと15kmほど迂回しなければなりません。とはいえ
          大木戸も見たいし全景も撮りたいしということで、数十分かけて車を走らせました。
           麦原からだと、比高は200mほどで済みます。整備された山道を進むと、まずは城山
          の南側中腹尾根先の「モロドノ郭」に至ります。一般に「モロドノ」は「毛呂殿」を意味し、
          在地領主の毛呂氏に関連するものと考えられています。モロドノ郭は削平空間はある
          ものの、それ以上に尾根の西辺だけに長く太く伸びる土塁が印象的です。おそらくは、
          ここで守るというより、麦原〜椚平間の通行を監視する関所のような役割であったもの
          と思われます。
           モロドノ郭のあとは、一旦城山を右手に西進し、尾根筋に出たところで回れ右して、
          山頂を目指すのが分かりやすいでしょう。この西から登尾根道は、本丸南西の虎口に
          直結しています。
           主城域は、基本的には山頂の主郭から東へ一二三段に腰曲輪と堀切が連なる構造
          をしています。『日本城郭大系』には、「築城技法としては粗雑な造り」とありますが、
          各曲輪の虎口は喰い違いの折れをもち、深い二重堀切や長大な竪堀を具えるなど、
          むしろかなり技巧的に感じました。とくに主郭南東の虎口は、その脇から主郭の奥へ
          横矢をかけながら誘い込むような袋小路状の区画があります。同じ上田氏の腰越城
          には、意図の有無は分かりませんが「囮虎口」と呼ばれる同様の行き止まりスペース
          があり、あるいはこちらもトラップとして設けられたものかもしれません。
           これだけの規模の山城を上田氏が独断で築いたとは少々考えにくく、後北条氏が
          慈光寺攻めのために築かせたという伝承は、蓋然性が高いといえます。少なくとも、
          最終的な改修者が後北条氏麾下の上田氏であったことは間違いないでしょう。主郭
          からは北方正面に慈光寺が望め、寺からすればそうとうな圧迫を感じていたと思われ
          ます。
           他方で、慈光寺との関係以外に、この城が重要な意味をもつことはまずないと考え
          られます。街道筋からは外れていますし、麦原・椚平の両集落を睨むだけなら、これ
          ほどの規模の山城を維持する必要はありません。慈光寺を降した時点で役目を終え、
          廃されたものと推測されます。後北条氏以前から城砦が営まれていたかは定かでは
          ありませんが、少なくとも吾那氏が詰城を求めたとしても、ここまで山奥に手を伸ばす
          必然性はないものと思います。
           
 椚平から大築城址を望む。
主郭のようす。 
 主郭南西隅付近の虎口。
主郭の説明板。 
 主郭から慈光寺を望む(画面中央中腹)。
主郭北東の土塁。 
 主郭南東隅付近の虎口。
虎口脇の横矢状に凹んだ箇所。 
囮虎口か。 
 2段目のようす。
2段目下の腰曲輪を見上げる。 
 3段目のようす。
3段目脇の竪堀。 
 3段目下の堀切。
堀切に付属する小曲輪。 
 2条目の堀切。
前出の竪堀を下から見上げる。 
 もろどの郭。
もろとの郭の土塁(下段)。 
 もろとの郭の土塁(上段)。
もろとの郭から麦原へ下りる途中の峰先の削平地。 
 椚平の大木戸。


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