腰越城(こしごえ) | |
別称 : 猿尾城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 猿尾氏か | |
遺構 : 土塁、堀 | |
交通 : 東武東上線/JR八高線小川町駅 からバスに乗り、「パトリアおがわ」 下車徒歩15分 |
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<沿革> 一般に、松山城主上田氏の家老山田伊賀守直定の居城とされる。ただし、築城の経緯 などは詳らかでない。現地説明板によれば、直定は永禄五年(1562)に太田資正勢との 合戦(赤浜原の戦い)で討ち死にしている。 『関八州古戦録』によれば、翌永禄六年(1563)に北条氏が松山城を攻め落とした際に、 上杉謙信に奪い返されないよう「青山腰越の両砦と共に堅固に相守らせた」とあり、直定 没後も腰越城が存続していたことがうかがえる。ただし、具体的な城主名は定かでない。 他方で、松山城に近い青鳥城の城主として、直定の子ないし弟と伝わる山田伊賀守直安 がいる。直安は、天正十八年(1590)の小田原の役で上田氏および北条氏が滅びると、 関東に入国した徳川家康に仕え、300石を与えられた(『寛政重修諸家譜』)。腰越城は 同役まで利用されていたものと推測されるが、詳細は不明である。 <手記> 腰越城は槻川の蛇行部に突き出た峰上にあり、東には小川町の市街地が広がります。 東麓の公共福祉施設「パトリアおがわ」に広々とした駐車場があり、入り口にはご丁寧に 城の案内図と模型が置かれています。駐車場から施設と反対側の県道11号に出れば、 腰越城跡入り口の看板があるので迷うことはないでしょう。上の地図のように南麓方面 からも登れるように書かれていることも少なくありませんが、現状では利用可能なのは 上述の登山道1本のみです。その他のルートはおそらく城跡の竪堀とつながっていると 思われますが、城内側からは民家の敷地に出るので下りないようにと張り紙やロープが 設置されています。おそらく、実際にそうした挙に出た人がいるのでしょう。鉄道オタクと 同様、一部のマナーの悪い人たちの所為で、こうしてせっかくの竪堀の景観が損なわれ てしまっています。他方で、城内のルートはよく整備されていて、順路どおりに巡れば、 城内の曲輪や防御施設と効率よく漏らさず見学できるようになっています。 登山道を登った先は、本丸背後の(おそらく)二重の堀切です。その後方も少し歩いて みましたが、自然地形でしたので、この堀切が城の最後尾と思われます。したがって、 全体の規模は必ずしも大きいとはいえませんが、近隣の安戸城や中城と比べて著しく 技巧的な構造をしているのが最大の特徴です。喰い違いの虎口や、横堀と交わるように 穿たれた竪堀、堀切をまたぐ登城ルートなど、地方領主のそのまた家臣が独力で築ける ものではありません。おそらく、最終的には上田氏が北条氏の了解と指導のもとで整備 したのでしょう。他方で、主城域の外郭防御として大きな横堀を設けているあたりなどは、 上杉氏の築城術の特徴と思われます。したがって、城の基礎は15世紀の長享の乱ごろ には出来上がっていたのではないかとも推察されます。 さて、腰越城の南東には青山城が望め、その先には小倉城がほぼ一直線に並んで います。これら3城はとても技巧的で整った縄張りをしており、ある種の防衛ラインを構築 していたのではないかという推測がはたらきます。とくにやや不自然な選地の青山城を 介して、3城が直線上にきれいに並んでいるという事実は、やはり考慮に値するといえる でしょう。 |
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パトリアおがわ駐車場から城山を望む。 | |
駐車場入り口の模型。 | |
最後尾の堀切跡と思われる地形。 | |
同上。二重堀切か。 | |
通路になっている竪堀。 | |
同じ竪堀の下方。 | |
竪堀と横堀が交わっている箇所。 | |
横堀のようす。 | |
同じく横堀と竪堀が交差している箇所。 | |
同竪堀を覗く。 | |
横堀を抜けた先の曲輪。 | |
西の郭と主城域の間の堀切。 | |
堀切から続く竪堀。 | |
西の郭のようす。 | |
西の郭の土塁及び虎口状地形。 | |
主城域へ通じる喰い違い虎口。 | |
「囮小口」と呼ばれる竪堀状の切れ込み。 | |
二の郭。 | |
本郭と二の郭の間の腰曲輪。 | |
本郭の虎口。 | |
本郭のようす。 | |
本郭から小川町市街地方面を望む。 | |
本郭から青山城を望む。 |