小鹿館(おしか)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 小鹿範頼
 遺構  : なし
 交通  : JR静岡駅からバスに乗り、「小鹿公民館前」
      下車徒歩3分


       <沿革>
           今川氏一門・小鹿氏の居館である。小鹿氏は駿河今川氏4代・今川範政の末子・千代秋丸
          が小鹿を領し、小鹿範頼と称したことにはじまる。範頼を溺愛した範政は、嫡男・範忠を廃して
          家督を範頼に継がせようとしたが、没後に若年の範頼が鎌倉公方の干渉を受けることを危惧
          した将軍・足利義教の下命により範忠が5代当主となった。
           範忠の子・義忠が文明八年(1476)に遠江国塩買坂で戦死すると、幼少の遺児・龍王丸と
          範頼の子・範満の間で家中を分かつ家督争いが生じた。危機を感じた龍王丸と母の北川殿は
          小川城の長谷川正宣を頼り、幕府は奉公衆で北川殿の弟の伊勢新九郎盛時(北条早雲)を
          派遣して仲介させた。その結果、範満は龍王丸が成人するまでの家督代行として、駿府館
          入った。
           しかし、龍王丸が15歳になっても、範満は家督を返上する素振りを見せなかった。北川殿は
          再び弟に助力を請い、駿河へ下向した盛時は兵を集めて駿府を急襲し、範満を討ち果たした。
          このとき、範満の弟・範慶と甥の孫五郎も自害しているが、家督代行中は範慶が小鹿館主を
          務めていたともいわれる。ただし、小鹿館で戦闘があったかは不明である。
           これにより、小鹿氏と小鹿館は滅んだとみられるが、『日本城郭大系』には「戦国時代に小鹿
          助五郎の名が見える」として、家名が存続していた可能性を示唆している。


       <手記>
           小鹿館の位置については諸説ありはっきりしていません。一般には伊勢神明社から雲竜寺
          の間付近にあったといわれており、『大系』には雲竜寺境内に「土塁状のものが若干見られる」
          とありますが、今日ではほとんど廃寺のような状況でよく分かりませんでした。古い航空写真を
          見ると、神明社北東側に方形の区画や土塁跡のような地形があり、こちらも候補地といえるの
          ではないかと思います。
           一方、小鹿公園の南方に堀ノ内や原屋敷といった字名が残り、地名の上では可能性の高い
          箇所とみられています。ただし遺構などはなく、やはり可能性の域を出ません。
           館と直接の関係はありませんが、神明社には樹齢千年を超えるといわれる立派な大クスの
          木があります。元亀天正のころには既に大木であったと伝わることから、小鹿館がどこにあった
          にせよその近くにそびえ立っていたはずです。樹木と会話ができる人がいれば、この大クスに
          所在を訊ねるのが、唯一の生き証人として確実なのでしょう。

           
 伊勢神明社と樹齢千年超の大クス。
小鹿公園の池と右奥に大クス。 
 雲竜寺。


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