小川城(こがわ)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 長谷川氏か
 遺構  : なし
 交通  : JR東海道本線焼津駅からバスに乗り、
      「竪小路団地」下車徒歩7分


       <沿革>
           現地説明板によれば、江戸時代に編まれた『駿河志料』に「法永長者の旧跡」とあると
          される。法永長者は、同じく江戸時代の『駿河記』では「山西の有徳人」と称され、在郷の
          有力者長谷川正宣のこととされる。正宣は小川湊の物流で財を成したとされるが、城を
          築いたのも彼なのかは明らかでない。
           文明八年(1487)に駿河守護今川義忠が戦死すると、その嫡子龍王丸が幼少であった
          ことから、義忠の従弟の小鹿範満との間で家督争いが勃発した。義忠正室の北川殿は、
          龍王丸を連れて正宣を頼り、母子は小川城に匿われた。室町幕府からは、北川殿の兄
          ないし弟で幕臣の伊勢新九郎盛時(北条早雲)が派遣され、小川城の北の石脇城に入り
          調停にあたった。その結果、龍王丸が成人するまでの間、範満が今川家の家督を代行
          することで和解した。
           母子はその後も小川城に保護されていたが、龍王丸が15歳になっても、範満は家督を
          返そうとはしなかった。そのため、幕府の内諾を得て再び盛時が駿河へ下向し、駿府館
          に範満を襲って討ち果たした。龍王丸は氏親と名乗って今川家当主となり、正宣は今川
          氏の被官となった。
           正宣の孫の正長は、元亀元年(1570)の武田信玄による駿河侵攻により城を逐われた。
          これにより、小川城は廃城となったものと推測される。ちなみに、正長は遠江に逃れて
          徳川家康に仕え、その子孫が「鬼平」で知られる火付盗賊改・長谷川平蔵宣以である。


       <手記>
           焼津市街南西の住宅街に遊歩道があり、上の地図に緑点で示したその中途の位置に、
          石碑と説明板が設置されています。遊歩道は線路跡を利用したような風に見えるのです
          が、鉄道等が走っていたという事実はないようで、なぜここにこんなプロムナーデがある
          のかは少々謎です。
           昭和30年代ごろまでは土塁が残っていたそうですが、今ではすっかり宅地化され何も
          ありません。古地図を見てもとりたてて要害性などはない平らな土地です。そもそも正宣
          の出自もよくわからず、もともとは武士の城館というより、商売で成功した富豪の屋敷と
          いうのが実情だったのでしょう。そこに、龍王丸母子が転がり込んできたので、最低限の
          防備を施したといったところではないでしょうか。発掘調査では城外にも屋敷地が広がり、
          磁器や茶碗といった輸入品などが発見されているそうです。そうした意味でも、戦いの場
          というよりは交易拠点として栄えていたと考えたほうがよいのでしょう。

           

小川城址碑と説明板。


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