御館(おたて)
 別称  : 上杉館
 分類  : 平城
 築城者: 長尾景虎
 遺構  : なし
 交通  : えちごトキめき鉄道・JR信越本線
      直江津駅徒歩10分


       <沿革>
           弘治三年(1557)ないし永禄元年(1558)に越後の長尾氏を頼って落去した関東管領上杉憲政
          の居所として、長尾景虎(後の上杉謙信)によって築かれたとされる。景虎が関東管領職を継いで
          上杉政虎と名乗ると、謙信自身も政庁として御館を使用したともいわれる。
           天正六年(1578)三月十三日に謙信が急死すると、その養子である景勝と景虎の間で家督争い
          が勃発した。いち早く謙信の居城・春日山城の本丸や金蔵などを占拠した景勝に対して、景虎は
          三の丸に拠って対峙した。ただちに前面衝突とはならず、当初は越後国内の景勝派と景虎派が
          形成されて、各地の国人間での争いが発生していく形で規模が拡大したといわれる。五月に入り、
          景虎は春日山城を退去して御館を拠点として世にいう御館の乱が本格的に幕を開ることになった。
          同月十七日と二十二日に、景虎は数千の兵で春日山を攻撃したが、景勝に撃退された。
           はじめは周辺諸大名の支持を受けた景虎方が優位であったが、同年六月に春日山城の資金と
          領土割譲を条件に武田勝頼が景勝と和睦するに至り、形勢が逆転した。春日山城と御館の間では
          睨み合いが続いたが、この間に越後国内では景虎派の戦死や落城、離反が相次いだ。御館では
          兵糧が窮乏するようになり、頼みの綱である景虎の実家・北条家の援軍も、雪や景勝方の抵抗で
          魚沼での足止めを余儀なくされていた。
           翌天正七年(1578)二月ごろから景勝による御館への本格的な攻撃が始まり、三月十三日には
          憲政が景虎長子・道満丸を伴って景勝との和平交渉に赴いたが、その途上で両者は景勝勢に
          殺害された。まもなく御館は総攻撃を受け、景虎は鮫ヶ尾城へ逃れたものの、城主・堀江宗親に
          背かれて自害した。
           廃城時期は定かでないが、遅くとも慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いまでには耕地になっていた
          とされる。


       <手記>
           御館の乱の舞台として名高い御館ですが、直江津の市街地に飲み込まれて遺構はありません。
          線路沿いの住宅街に小さな御館公園があり、石碑や説明板が建つのみです。それによると全体の
          構造はおおよそ分かっていて、公園を包摂し御館川を背にした正方形の主郭と、周囲の独立した
          複数の曲輪から成る平城だったようです。
           線路の向こうには春日山城を望むことができ、争乱は越後全土に及んでいた一方で、この至近
          距離で直接の対峙が1年近く続いていたのかと思うと、少々不思議な気分になります。

           
 御館公園。
園内の石碑と説明板。 
 説明板の縄張り図。
公園付近から春日山城を望む(右手奥)。 


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