淡河城(おうご)
 別称  : 上山城
 分類  : 平山城
 築城者: 淡河氏
 遺構  : 曲輪、土塁、堀、門跡
 交通  : 神戸電鉄三田線岡場駅または道場南口駅
      からバスに乗り「淡河本町」下車徒歩5分


       <沿革>
           在地領主淡河氏の居城である。淡河氏は執権北条義時の弟時房の孫時治が、貞応元年(1222)
          に播磨国美嚢郡淡河庄の地頭職を得たことにはじまる。『太平記』には、「淡河右京亮時治」が元弘
          三年(1333)に越前国大野郡に出陣中、足利高氏による六波羅探題陥落の報を受け、妻子を入水
          させた後に自害したとある。ただし、年代的に初代時治と同一人物とするのはほぼ不可能である。
          また、淡河氏初代の名を時治ではなく越後守朝盛とする説もある。
           淡河氏自体はその後も続き、南北朝時代には淡河遠江守政宗が南朝に属して転戦した。このころ
          までには淡河城も築かれていたようで、暦応二/延元四年(1339)に北朝方の赤松円心が淡河城
          を攻め落とした。
           政宗の子とされる範清は、その名乗りから赤松氏に属して所領を回復したと推測される。その後、
          赤松氏の一族中島熙範の子季範を養嗣子としたとされ、これにより淡河氏は赤松一門に加わったと
          考えられる。
           16世紀に入ると赤松氏の権威は失墜し、播磨国内は赤松氏の重臣や一族が跋扈する内乱状態と
          なった。淡河元範は戦国大名化した別所氏に属したが、天文二十三年(1554)に三好長慶の支援を
          受けた有馬重則によって淡河城を攻め落とされた。永禄元年(1558)に元範は別所氏の手を借りて
          淡河城を奪回したが、嫡男範之が嗣子なく没したため、備前江見城主江見祐春の子定範を養子と
          して跡を継がせた。
           天正六年(1578)二月に別所長治が織田氏から離反すると、定範もこれに従って淡河城に籠った。
          定範の妻は別所就治の娘で、長治は義理の甥にあたる。同年九月までに別所氏の居城三木城
          織田家臣羽柴秀吉によって包囲されたが、十月に有岡城主荒木村重も織田氏に反旗を翻したため、
          淡河城は摂津から三木城への補給ルートの最重要拠点となった。
           翌天正七年(1579)六月二十七日、秀吉の弟秀長の軍に囲まれた定範は、牝馬を集めて敵陣に
          放ち、牡馬を興奮させて混乱に陥らせる奇策で撃退したとされる。しかし、多勢に無勢として城に火を
          放ち、三木城の籠城方に合流した。同年九月の戦闘で定範は討ち死にしたともいわれるが、確証は
          ない。
           翌天正八年(1580)に三木城が開城して大名・別所氏および淡河氏が滅ぶと、前出の有馬重則の
          子則頼が3200石で淡河城主となった。その後、則頼は秀吉のもとで1万5千石まで加増されている。
          淡河城も則頼によって、最終的な改修を受けたとみられる。
           関ヶ原の戦い後の慶長六年(1601)、則頼は2万石に加増のうえ三田藩主に転出した。これにより
          淡河城は廃城となったとみられるが、破城自体は元和元年(1615)の一国一城令を受けてのことと
          もいわれる。


       <手記>
           淡河城は、淡河川に突き出た比高30mほどの台地先端部を利用した城です。とくに東側は裏川の
          急峻な谷戸となっていて、その向こうには道の駅があるため、駐車場には不自由しません。道の駅
          からは斜面の「淡河城址」の看板と、本丸の模擬櫓が見上げられます。その斜面に登城路も付いて
          いるので行くのは簡単ですが、途中に牛舎があるので臭いが気になる人は注意してください。
           台地の北東角に本丸を置き、その外側を二の丸が梯郭式に取り巻いています。本丸は土塁や堀、
          門跡が比較的良好に残っていますが、二の丸は両端の堀が見られるのみです。二の丸南東隅には
          かつて竹慶寺という寺院があったそうで、今では堂宇が建っていたとは思えないほど寂びています
          が、境内には淡河氏累代の墓碑がひっそりと並んでいます。
           台地の反対側の隅には西の丸、竹慶寺跡の南側には南の丸というそれぞれ独立した曲輪が存在
          したそうですが、二の丸以下は土地改良によりすっかり均されていて面影もありません。とはいえ、
          豊臣時代まで存続しただけあって本丸周辺には近世城郭らしい整った雰囲気も残っています。

 道の駅から淡河城跡を見上げる。
本丸模擬櫓を下から見上げる。 
 本丸土塁上から模擬櫓越しに城下を俯瞰。
土塁上から本丸を俯瞰。 
 土塁上の明神社。
土塁上の城址碑。 
 本丸内から見た土塁。
本丸門跡。 
 本丸の堀と土塁。
堀の中途にある土橋。 
遺構かは不明です。 
 二の丸南東隅の竹慶寺跡を望む。
竹慶寺跡境内の淡河氏累代の墓碑。 
 竹慶寺跡境内脇の二の丸堀。
二の丸北西端の堀跡。 
 本丸前から西の丸方面を望む。


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