三田城(さんだ)
 別称  : 三田陣屋、車瀬城
 分類  : 平山城
 築城者: 有馬氏か
 遺構  : 堀、土塁
 交通  : JR福知山線/神戸電鉄三田線三田駅
       徒歩15分


       <沿革>
           現在、三田小学校脇に三田城址碑が建てられているが、この地には江戸時代を通じて九鬼家
          の三田陣屋が存在していた。九鬼家以前にも、「三田城」を首府とする三田藩が存在していたが、
          この三田城が三田陣屋と同一のものであるかは定かでない。さらに、三田城以前には車瀬城が
          三田地方の中心であったが、これも三田陣屋敷地内の、今日の有馬高校一帯にあたる字「古城」
          がその跡であるといわれているが、確証はない。すなわち、三田陣屋の前身となる三田城および
          車瀬城の所在地は、今なお明らかではない。
           車瀬城は、赤松氏一族有馬氏の居城として築かれたとされるが、その時期については詳らか
          でない。有馬氏は、赤松則村(円心)の三男則祐の三男義祐にはじまる。有馬氏は当初、城ヶ岡
          の東野上城を居城としていたとされる。かつて、三田陣屋周辺には金心寺と呼ばれる有力な寺院
          があり、三田はもともと金心寺の門前町として栄えたものとされる。したがって、車瀬城が三田城
          や三田陣屋の前身とするならば、有馬氏が勢力を拡大するなかで、金心寺を傘下に収め、門前町
          と取り込む形で築かれたものと推測される。
           16世紀後期に織田信長のもとで荒木村重が摂津守護として台頭すると、有馬領主有馬国秀は
          村重の与力となった。天正三年(1575)、国秀は村重に不義の疑いをかけられ、身の潔白を訴え
          自害した。国秀に子がなかったため有馬氏の嫡流は絶え、村重の家臣荒木平太夫重堅が三田
          城主として送り込まれた。これが、三田城の名が明確に現れる最初のものとみられる。
           同六年(1578)、村重は突如信長に反旗を翻し、居城有岡城に籠城した。三田城はまもなく攻め
          落とされ、重堅は羽柴秀吉麾下に組み込まれた。天正十年(1582)の本能寺の変の後、近江の
          国人山崎片家が、2万3千石で三田城主となった。一説には、片家の家臣車瀬政右衛門が城の
          改修に携わったことから、車瀬城の名が生まれたとされる。ただし、車瀬の名は武庫川に架かる
          車瀬橋にみられるようにもともと三田にあった地名と思われ、政右衛門についても土豪から山崎氏
          家臣に転じたものと推測される。
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いの後、片家の子家盛は若桜鬼ヶ城へ移封となり、翌六年(16
          01)に有馬則頼が2万石で淡河城から三田城へ転封となった。則頼は有馬家の傍流で、国秀の
          はとこにあたるとされる。則頼の子豊氏は、父とは別個に福知山6万石を知行していたが、同七年
          (1602)に則頼が死去すると、三田領2万石は豊氏の福知山藩領に併合された。
           元和六年(1620)、豊氏は久留米21万石に加増転封となり、有馬氏は父祖の地を離れることと
          なった。この間、三田城は福知山藩の支城として機能し、城代が派遣されたものと考えられるが、
          具体的にどのように管理されていたのかは不明である。寛永三年(1626)には、能見松平重直が
          3万石で上山藩から移封されたが、同十年(1633)に豊後高田へ転封となった。
           同年、九鬼久隆が3万6千石で三田に入封した。久隆は、九鬼水軍で知られる九鬼嘉隆の孫で
          鳥羽藩2代藩主九鬼守隆の五男であるが、兄で守隆三男の隆季と家督を争ったため、禄を分割
          したうえで、双方転封となった(隆季は綾部藩2万石に封じられた)。この裁定は、所領を細分化
          するだけでなく、水軍の雄である九鬼家を内陸に押し込めることで、二重の弱体化を狙ったもので
          あるとされる。
           久隆は、三田陣屋を藩府として建設したが、前述のとおりこれが旧三田城を取り立てたものか、
          新築したものかは定かでない。10代藩主隆国の代の天保十年(1839)、九鬼家は城主格に昇格
          した。これ以降は三田城と呼称するのが正しいと思われるが、一般には九鬼家時代を通じて陣屋
          で徹されている。三田藩九鬼家は、13代を数えて明治維新を迎えた。

          
       <手記>
           三田城は、武庫川沿いの舌状の台地上に位置しています。現在の三田小学校が三田陣屋の
          跡で、東隅に城址碑が建てられています。小学校の南には、大池と呼ばれる堀を兼ねた貯水池
          が今も残っています。当時は、海賊大名の本分を忘れないように、この池で水軍の訓練を行って
          いたそうです。小学校とその北の有馬高校の間には堀が残っています。かつては大池から引き
          入れた水で満たされた水濠だったようですが、現在は一部空堀になっています。
           三田陣屋の最大の謎は、繰り返す通り中世三田城(および車瀬城)のときから同じ位置にあり
          続けたのかという点です。この点について、私は少なくとも前身となる城が存在したていたものと
          考えています。三田陣屋は、舌状台地の先端ではなく、その根元近くから横に張り出した部分を
          利用しています。すなわち、この舌状台地に城を築いた場合、まず本丸とはならない場所に位置
          しています。では台地先端付近はというと、先述の字古城と呼ばれる有馬高校敷地になります。
          古絵図をみると、この字古城は空堀で3つに分けられ、陣屋ではなく中世的な「城」の趣を呈して
          います。直感的に、この字古城が九鬼氏入部までの三田城の中心部分で、陣屋は城の外郭部を
          転用したものではないかと推測されます。
           また、陣屋の北西には小区画ながら二の丸と呼ばれる曲輪があります。そもそも城でない陣屋
          には、本丸も二の丸もないはずです。したがって、この二の丸は、九鬼家の城主格昇格以降に、
          拡幅されたか名づけられたものではないかと考えられます。

           
 三田城址碑。
三田小学校と有馬高校の間の堀。 
 同上。かつてはこちらも水濠だったようです。
大池。 
 城下の御下屋敷跡(現法務局)。


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