勝賀城(かつが)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 香西資村
 遺構  : 曲輪、土塁、石塁、堀、虎口
 交通  : JR予讃線鬼無駅徒歩60分


       <沿革>
           讃岐の大身領主香西氏累代の居城である。香西氏は羽床城主羽床資高の四男新居
          資光の子資村が、承久三年(1221)の承久の乱で幕府方につき、戦功により香川・阿野
          両郡の郡司に任じられたことにはじまる。資村は苗字を香西とし、勝賀山に詰城を築き、
          山麓に平時の居所として佐料城を設けた。
           南北朝時代に入ると、香西氏は北朝の細川氏に属して勢力を伸長させた。とくに香西
          元資は、同じく讃岐の香川元明・安富盛長・奈良元安とともに、応仁の乱で細川勝元を
          支えて細川四天王と呼ばれた(『南海通記』)。元資の長男元直は、在京して細川氏の
          補佐にあたり、勝賀城主は次男元綱が継承した。一般に、元直の系統を上香西、元綱
          の系統を下香西と呼びならわしているが、所領の分割があったかは定かでない。
           上香西氏は細川氏の内紛に巻き込まれて衰退したが、元綱の子元定は、大内義興
          に属して香西氏の最盛期を創出した。三好氏の勢力が讃岐に及ぶとその傘下に入った
          が、なおも勢力は維持していた。
           元定の曽孫佳清は、元亀元年(1570)の野田城福島城の戦いに参陣した際、病に
          より失明した。天正三年(1575)、土佐を統一した長宗我部元親の侵攻に備えるため、
          佳清は新たに藤尾城の築城を開始した。同五年(1577)には、まだ未完成の藤尾城に
          移っている。同六年(1578)には、「盲目の大将」を憂いに感じた一族の香西清長・清正
          父子が、佳清の弟千虎丸の擁立を図った。この内紛は、植松往正・資久兄弟らの活躍
          によって鎮められたが、香西氏の弱体化は決定的となった。
           天正十年(1582)、元親が次男の香川親和を将として軍勢を送り込むと、佳清は抗戦
          するも敗れ、藤尾城も落城寸前となった。このとき、親和の養父の之景が仲裁に入り、
          香西氏が長宗我部氏に臣従することで和議が成立した。勝賀城で戦闘があったか否か
          は詳らかでない。
           天正十三年(1585)に羽柴秀吉が四国平定の軍を起こすと、佳清は長宗我部氏方と
          して奮戦したが、敗れて下野した。佳清の藤尾城移転以降の勝賀城の動向については
          明らかでない。


       <手記>
           JR予讃線が高松駅に向かう左手に、屋島のように屹立するテーブル状の山が勝賀山
          です。地図に示した緑点付近に登山道の入り口があり、ある程度小回りの利く車であれ
          ば、その手前に駐車スペースもあります。県道33号線から向かう途中には佐料城跡が
          あります。
           しばらく上ると、南西の鞍部にまず到達し、「猫びたい」「猫の背」などと書かれています
          が、これらは後で付けられたように感じます。というのも、その先の主城域手前には「馬
          がえし」があり、こちらはその名に恥じない急斜面です。天霧城にも「犬返しの険」がある
          とおり、こちらの馬がえしなら城の防備に組み入れられていてもおかしくありませんが、
          猫の方は名前を付けるほどには感じませんでした。
           ところどころ手を使ってよじ登りつつ、馬がえしをクリアすると、主城域の土塁が見えて
          きます。登山道は土塁の間を虎口のように突き抜けていますが、これはどうやら後世に
          土塁を破壊して作った道のようです。実際の虎口は向かって左手にあったと推定されて
          いるようで、不明瞭ですが窪み地形となっています。虎口跡から続く北西辺の土塁は、
          高さはないものの長大でところどころ折れがあり、見ごたえがあります。
           縄張り上の特徴は、矩形で広さもある主郭を中心として、周囲に複数の方形の曲輪が
          点在していることです。これらの方形曲輪を形成する土塁を取り払うと、主郭とその外側
          をぐるりと土塁で囲む帯曲輪の2段構えとなります。
           また、喰い違い虎口や土塁の横矢折れ、そして2017年度の調査で発見されたという
          竪土塁など、比較的先進的な技巧が取り入れられているのも特筆すべきポイントです。
          直感的には、とても香西氏が独力で築いたものとは思えません。また方形曲輪について
          は、いずれもさほど防御に資しているようには感じられず、曲輪というより区画といった
          印象です。
           そこで私見としては、現在の勝賀城の遺構は、秀吉の四国平定後に讃岐国主となった
          仙石秀久ないし生駒親正によって、長期の籠城も視野に入れて改修されたものと考えて
          います。構造や時代背景を考えれば、秀久の方が可能性は高いでしょうか。讃岐に入国
          したものの、四国の情勢が落ち着くまでの拠点は入用なわけで、香西氏時代からの港を
          通じて大坂の秀吉とも連絡を取りやすい勝賀城を取り立てる理由は、充分にあるように
          思います。
           さらに香西氏時代の勝賀城は、前述のとおり方形曲輪部分を取り払い、土塁や虎口を
          単純なものにした、二重の土塁で囲まれた2郭構造をしていたのではないかと類推して
          います。

           
 佐料城跡付近から勝賀城跡を望む。
馬がえしの急坂。 
 南西端の虎口跡。
北西辺の土塁。 
 主郭南西側の方形曲輪の土塁。
主郭南東辺の土塁と虎口開口部。 
 主郭の祠と標柱、説明板。
主郭のようす。 
 主郭北東辺の喰い違い虎口。
喰い違い虎口前の堀と土塁。 
 主郭北東側の方形曲輪越しに、
 主郭の土塁を望む。
主郭北東に見られる石積み。 
 外郭東縁の竪堀状地形。
外郭北東辺の土塁。 
 外郭の堀越しに北東尾根を望む。
外郭の堀と土橋。 
 竪土塁。


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