六万騎城(ろくまんぎ)
 別称  : 六万寺城
 分類  : 山城
 築城者: 上田長尾氏か
 遺構  : 曲輪、土塁、堀、櫓台、虎口
 交通  : JR上越線五日町駅徒歩40分


       <沿革>
           南北朝時代に築かれたともいわれるが確証はない。上田長尾氏の居城坂戸城の支城とみられ、
          城主として福島大炊督の名が伝わっている。また現地説明板によれば、上杉古文書に上杉景勝の
          家臣・水沢彦右衛門の在城記録も残っているとされる。


       <手記>
           坂戸城のひとつ北側にある峰が六万騎城跡の六万騎山です。現地説明板によれば、江戸時代
          までは六万寺山と呼ばれていたそうで、これが事実なら城名は正しくは六万寺城だったと推定され
          ます。また、六万騎の読みも「ろくまんぎ」「ろくまんき」の2通り見られますが、元が六万寺山だった
          のであれば、「ろくまんぎ」と濁るのが自然な転訛でしょう。
           俗に、6万の兵を収容可能だったことからその名がついたとも言われますが、城はもちろん山自体
          6万もの人員が寝起きできる規模ではありません。おそらく、江戸時代になって外来の領主に支配
          されるなか、上杉氏や上田長尾氏の武名にあやかって六万騎山の山名が生まれ、由来が後付け
          されたのでしょう。
           城は、山頂とその西側のピークに曲輪群がみられます。ここでは仮に、山頂を主郭(部)、西側の
          ピークを西郭(部)と呼びます。先端麓の地蔵尊脇に駐車場や説明板があり、登山道も整備されて
          います。主郭背後から南麓に下りる道もあるので、ぐるっと1周するのがおすすめです。
           先端から登ると、浅い2条の堀切を経て西郭部に入ります。西郭部は3段の腰曲輪を持ち、ピーク
          の西郭には特徴的な櫓台状の土壇が残っています。背後尾根には3条の堀切が穿たれているよう
          に見えますが、遊歩道が整備されいているために切断面が曖昧になり、コース外は草木が茂って
          いてはっきりとは見て取れません。
           主郭は前方に2つ、後方に1つ腰曲輪を従えています。主郭部の背後にも3条の堀切が設けられ
          ているのですが、前方側の堀切が3つ並んでいるのに対して、背後はそれぞれが深く独立している
          のが特徴です。3条堀切の先にも小ピークがありますが、曲輪の形成は甘く、基本的にこちら側は
          堀切で守るという構想だと思われます。現に、主郭の東方は2か所ほどロープの鎖場となっていて、
          小ピークの先にももう1条堀切が認められます。
           全体として、6万騎どころか数百程度の比較的少数の兵で守ることを意図した城といえるでしょう。
          坂戸城の魚野川対岸には六日町があるのに対し、六万騎城の対岸には五日町があります。この
          ことから、南北朝時代かは分かりませんが、坂戸城を挟んで反対側の樺沢城とともに、上田長尾氏
          の有力支城として古くから存在していたのではないかと思われます。他方で、政景が景虎に従って
          以降は、坂戸城のこちら側に敵を抱えたことがほとんどないため、樺沢城と異なりあまり改修される
          ことなく廃城となったのではないかというのが、個人的な見解です。
           なお、六万騎山の南側には永正七年(1510)に関東管領上杉顕定が長尾為景と戦って討ち死に
          した長森原の古戦場があります。このとき、六万騎城があったのか、あったとして合戦とかかわりが
          あったのかなど、詳細は不明です。

           
 南から六万騎城跡を望む。
先端側尾根筋の堀切跡。 
 同上。
西郭部の腰曲輪。 
 同上。
同上。 
 西郭と櫓台状土壇。
西郭部背後の3条堀切。 
 同じく主郭側から3条堀切を俯瞰。
主郭部前方側の腰曲輪。 
 同上。
主郭のようす。 
 主郭から坂戸城跡を望む。
 手前の平野部が長森原古戦場。
主郭後方の腰曲輪。 
 主郭部背後の堀切1条目。
2条目。 
 同上。
3条目。 
 3条堀切の先の小ピーク。
小ピーク背後の堀切跡。 
 主郭部南尾根の堀切跡。
主郭部南尾根の小ピーク。 
城域に含まれるかは不明です。 
 おまけ:長森原古戦場(管領塚史跡公園)。


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