寒河江城(さがえ) | |
別称 : なし | |
分類 : 平城 | |
築城者: 大江親広 | |
遺構 : 堀、土塁跡 | |
交通 : JR左沢線寒河江駅徒歩15分 | |
<沿革> 鎌倉幕府草創の功臣である大江広元の長男親広は、承久三年(1221)の承久の乱に 際して宮方につき、敗れて父の所領の1つであった寒河江荘に隠棲した。このとき造営 された館が、寒河江城のはじまりとされる。ただし、親広没後の寒河江荘経営は、代官 に任されていたとみられている。 弘安八年(1285)の霜月騒動において、大江一族の多くが安達氏に与して戦死した。 これを受けて、親広の曽孫元顕は後難を避けて寒河江荘へ下向した。 南北朝時代に突入すると、元顕の子元政は一貫して南朝を支持し、北畠顕家の上洛 軍に従軍するなど各地を転戦した。しかし、延文四/正平十四年(1359)に北朝が派遣 した斯波兼頼と戦って討ち死にし、元政の子時茂も、応安元/正平二十三年(1368)の 漆川の戦いで兼頼に壊滅的な敗北を喫した。 これを受け、時茂の子時氏は北朝に降り、本領を安堵された。寒河江氏を初めて称し、 寒河江城を整備したのは時氏とされる。 天正二年(1574)、最上義守・義光父子が対立して内訌が勃発すると、寒河江兼広は 義光を支持した。これに対し、義守派の白鳥氏・天童氏・蔵増氏・野辺沢氏、さらには 寒河江氏と同族の白岩氏・溝延氏・左沢氏らが兵力を集めて寒河江城を囲み、本丸を 除いて突き崩されたとされる。この戦いの背景には、義守を支援する伊達輝宗の影響 があったといわれる。義光と輝宗の間で和議が成立するに及んで、寒河江氏は危機を 脱した。兼広が没すると、寒河江氏一門 吉川元綱の子高基が、兼広の婿養子となって 跡を継いだ。 天正十二年(1584)、義光は白鳥長久を山形城に誘殺し、主を失った長久の居城の 谷地城を急襲して攻め落とした。返す刀で寒河江へ転進した最上勢は、白鳥氏旧臣を 糾合した高基の弟柴橋頼綱を撃破して討ち取った。覚悟を決めた高基は、寒河江城を 出て貫見楯に逃れ、そこでもう1人の弟の吉川隆広や忠臣たちとともに自害した。 寒河江氏が滅んでからしばらくは、明確な城主は置かれなかったようであるが、後に 義光の嫡男義康が寒河江城主となった。一説には、もともと兼広の婿養子となる約束 だったのは義康であったが、これを反故にして高基が寒河江氏を継いだため、最上氏 との間に確執を生じたともいわれる。ただし、この話には確証はなく、寒河江氏を攻め 滅ぼした大義名分として、後付けされた可能性が高いと思われる。 慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いに際し、寒河江城は庄内から攻め寄せた上杉氏の 軍勢に攻め落とされた。このときの城主中山朝正は、大江親広の下向に随従した中山 忠義の子孫で、寒河江高基の旧臣である。 戦後、寒河江城には義康の弟家親が入れられた。慶長八年(1603)に義康が義光に よって廃嫡・殺害されると、家親は嫡子となって山形へ移り、寒河江旧臣の寒河江肥前 が寒河江城主となった。肥前は、義光が同十九年(1614)に病没した際に殉死し、城は 最上家の預かりとなった。 元和八年(1622)に最上家が改易となると、寒河江城は新たな山形藩主鳥居忠政の 持ち城となったが、まもなく本丸以外の堀を埋めて廃城となった。 <手記> 寒河江城は3重の輪郭式平城だったようで、往時の堀跡をおおよそでなぞったものが 上の図になります。寒河江小学校西側の正門脇に城址碑が、また正門を入ったあたり に二の丸跡の碑が建てられています。小学校南辺の水路は本丸堀の名残で、東門前 には本丸跡の碑があります。その隣には大江姓のお宅がありますが、寒河江氏と関連 があるのかは分かりません。本丸北東隅にも堀跡とみられる水路が巡り、内側の畑は 1段高くなっています。 また、調べてみると北の長念寺背後から三の丸北東隅、そして東辺にかけても、水路 や低地の畑といった形で、堀跡をなぞることができるようです。その他の堀跡も、道路と してなぞることはできるので、機会があればもう少しじっくり歩いてみたいところです。 |
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寒河江小学校正門脇の城址碑。 | |
正門を入ったところの二の丸跡碑。 | |
小学校南辺の堀跡。 | |
小学校東門前の本丸跡碑。 | |
二の丸北東部の惣持寺跡碑。 | |
本丸北東隅の水路と段差。 |