谷地城(やち)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 中条長昌
 遺構  : 土塁
 交通  : JR奥羽本線さくらんぼ東根駅から
      バスに乗り、「役場」下車徒歩5分


       <沿革>
           弘治年間(1555〜58)ごろ、中条長昌によって築かれたとされる。中条氏は武蔵七党の
          1つ横山党の一族で、鎌倉幕府の評定衆に招かれた中条家長を祖とする。その庶流に、
          中条氏の所領の1つである、河北を含む小田島荘を治めた小田島氏があったが、南北朝
          時代に北朝の斯波兼頼に圧迫され、長国の代に谷地へ追いやられたとされる。家系図に
          よれば、長昌は長国から数えて5代目にあたる。
           その後、経緯は不明であるが、元亀年間(1570〜73)までに白鳥城主白鳥十郎長久が
          中条氏と谷地城を継承した。白鳥氏は奥州安倍氏の末裔とされているが、中条氏と同族
          であるとする説もあり、出自は判然としない。
           長久は文武両道の名将といわれ、勢力を拡大するとともに谷地城も改修した。ついには
          織田信長に名馬を献上して出羽守の称号を得ようとしたため、南羽で覇を競う最上義光
          の警戒を呼んだ。
           義光はまず、嫡男義康の嫁に長久の娘を迎えることを打診し、姻戚関係を結んで懐柔
          を図った。そして、ことあるごとに長久を山形城へ招いたが、長久も義光を警戒して応じず
          に徹した。そこで義光は重病と称し、後事を託したいと改めて何度も使いを出した。長久は
          とうとうこれを信じて、天正十二年(1584)に山形城へ赴いたところを殺害された。義光は
          即座に兵を谷地城へ向け、主を失った城は抵抗むなしく陥落した。新たな城主には、最上
          家臣斎藤光則が充てられた。
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いでで、谷地城は庄内から攻め込んだ上杉家臣下秀久
          らの軍勢に攻め落とされた。しかし、本戦で西軍が敗北すると、秀久らは情報の遅れから
          撤退しそびれて孤立し、そのまま谷地城に籠って最上勢と対峙した。7日間に及ぶ激しい
          攻防戦の末に城方は降伏したが、義光はその勇を見込んで秀久を家臣に迎えた。
           その後も谷地城は最上氏の管理下に置かれたが、元和八年(1622)に最上家が改易と
          なるに及んで廃城となったとされる。


       <手記>
           谷地城は近隣の寒河江城溝延城などと同じく3重の堀をもつ輪郭式の平城ですが、
          その形状は大きく異なっています。なかでも最外郭の堀は食指を伸ばすアメーバのごとく
          いびつで、とくに南側は狸のしっぽのように張り出していたようです。
           今ではそのラインを辿るのも難しく、県道25号線と110号線(南小路)、そして三社宮に
          囲まれた本丸が読み取れるくらいです。遺構はさらに乏しく、土塁の一部に三社宮の本殿
          が鎮座しているのみといわれています。
           白鳥十郎長久は、出自は謎ながらなかなかに野心家で、とても興味深い人物といえる
          でしょう。その夢の跡でもある谷地城址が、このように埋もれた状態であるのは、なんとも
          さびしく残念に思います。

           
 三社宮門前の説明板。
三社宮と鳥居脇の城址碑。 
 三社宮本殿が鎮座する谷地城土塁の一部。


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