今泉館(いまいずみ) | |
別称 : なし | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 今泉氏 | |
遺構 : なし | |
交通 : 小田急線本厚木駅または座間駅よりバス 「上今泉」バス停下車徒歩3分 |
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<沿革> 武蔵七党の1つ猪俣党に属する今泉氏の館と推測されている。『吾妻鏡』には、 承久三年(1221)の承久の乱で討ち死にした今泉七郎の名がみえる。しかし室町 時代に入ると、今泉氏の名はみられなくなる。 永享十二年(1440)、前年の永享の乱で自害した鎌倉公方足利持氏の奉行人 であった一色伊予守六郎が、今泉館に立て籠もって抵抗を続けた。関東管領の 両上杉氏は、家臣長尾憲景・太田資光を派遣し、今泉館を攻めさせた。伊予守は 敗れて下野国へ逃れ、後の結城合戦へとつながった。 落城に際して、伊予守の妻の護王姫にまつわる伝承が残っている。護王姫は、 伊予守脱出後も館に残っていたが、このとき子を身籠っていた。護王姫も館を脱出 して逃れようとしたが、途中で産気づいてしまい、そのまま出産した。その赤子は 敵に捕まり、目久尻川へ投げ捨てられた。護王姫は何とか星谷までたどり着いた ものの、そこで息を引き取った。 この落城により、今泉館は廃城になったものと思われる。 <手記> 今泉館は相模川の河岸段丘上にあり、同じ段丘上には海老名氏の庶流国分氏 の国分氏館がありました。海老名氏は横山党に属し、猪俣党とは同族です。 館の南側には井戸坂という坂道があり、その下には近年まで殿井戸と呼ばれる 古井戸があったということです。館は井戸坂の北側、クリオ三番館というマンション が建っているあたりにありました。とくに遺構は残っておらず、先の井戸坂が唯一 のよすがといえます。 また、南方500mほどの舌状の台地角にはかつて内出の地名があり、城館跡が 存在した可能性が推測されます。あるいは、今泉館の支砦があったとも考えられ ますが、憶測の域を出るものではありません。 |
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今泉館跡周辺現況。 | |
井戸坂から今泉館跡方面を望む。 |