沼田城(ぬまた)
 別称  : 沼田城山
 分類  : 平山城
 築城者: 沼田氏か
 遺構  : 堀、土塁
 交通  : 伊豆箱根鉄道大雄山線相模沼田駅徒歩10分


       <沿革>
           『新編相模国風土記稿』によれば、波多野氏の一族沼田氏の城とされる。沼田氏の詳しい
          系譜は明らかでないが、『吾妻鏡』には建久三年(1192)に波多野氏一門の沼田太郎の名が
          みられる。塚原村天王院の寺伝によれば、同寺は応永二十一年(1414)に沼田左衛門尉の
          開基によって創建されたとあり、このころまでには沼田氏の城として沼田城が存在していたと
          『記稿』では推測している。
           15世紀後半ごろ、小田原城主大森氏頼(寄栖庵)は城を嫡男実頼に譲り、自身は岩原城
          に移った。沼田城もこのときにまでには大森氏の所有に帰し、沼田氏は没落していたと考え
          られている。その経緯は定かでないが、氏頼の父頼春が下足柄郡に所領を得た応永二十四
          年(1417)以降のことと推察される。
           その後の沼田城の動向については不明である。


       <手記>
           沼田城は、相模沼田駅の西に突き出た丘陵先端部の膨らんだ箇所を利用して築かれた城
          です。地名の通り、かつて一帯は水源の豊かな地域だったようで、開発領主の拠点としては
          絶好の位置にあるといえます。
           現在、主城域は畑地となっていて、南側中腹から登る道があります。登りきった突き当たり
          には、根本が折れた城址標柱が寂しく寂しく立てかけられていました。この道はクランク状に
          折れて北側斜面へと通じているのですが、これがそのままかつての堀跡に相当しているそう
          です。この堀跡のほかに、丘上には取り立てて遺構らしきものは見当たりません。
           一方、堀跡の道をたどって北側斜面中腹へ下りると、切岸と横堀の跡がはっきり見て取れ、
          もっとも城跡らしい雰囲気を感じることができます。西方の付け根側に進むと、張り出し状の
          土塁もみられ、この城が後北条氏時代まで使用されていた可能性を匂わせる遺構ともいえ
          ます。
           『日本城郭大系』などの要図を見ると、以前は遺構と思しき人工の造作がもっとあったよう
          ですが、今では宅地化が進み、大部分が失われてしまったようです。

           
 城址標柱。
丘上のようす。 
 北側斜面西方、張り出し状の土塁。
北側斜面の堀跡。 
 北側斜面の切岸と堀跡。
畑地の中の段差。堀跡か。 


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