西条東城(さいじょうひがし)
 別称  : 西条城、戎城
 分類  : 平城
 築城者: 森春之か
 遺構  : 堀跡、櫓台
 交通  : 徳島自動車道土成ICから車で10分


       <沿革>
           『吉野町史』の「三木家系図」によれば、貞和二/正平元年(1346)に秋月城の支城として築かれた
          とされる。同書では築城主を(森)左近将監備前守春之としているが、名乗りが不自然なうえ蜂須賀氏
          家臣として後に城主となる森監物や、阿波水軍・森氏などと混同しているものと思われる。
           天文年間(1532〜55)には、細川氏之(持隆)の家臣・岡本美作守清宗入道牧西が100貫文で在城
          していた。牧西の娘・小少将は、氏之の側室となって細川真之を、次いで氏之を殺害した三好実休の
          の継室として三好長治を産んだことで知られる。巷説では木津城主篠原自遁と密通し、これを咎めた
          同族の上桜城主篠原長房を自遁が讒言し、長治と真之に討たせたといわれるが、今日では信憑性は
          低いとされている。また、土佐の長宗我部元親が側室とした阿波出身の小少将は、同名の別人とみら
          れている。
           天正十年(1582)、阿波へ侵攻した長宗我部勢によって西条東城は攻め落とされ、牧西も討ち死に
          したとされるが確証はない。また、長宗我部氏支配下での西条東城の扱いも不明である。
           天正十三年(1585)に羽柴秀吉が四国を平定し、蜂須賀家政を阿波に封じると、西条城は阿波九城
          の1つとして改修された。城番には蜂須賀家臣・森監物が入れられたが、慶長二年(1597)に没した。
          その後の城番については諸説あり定かでないが、阿波九城は寛政十五年(1638)に廃城となった。
           ちなみに、西条東城とは西条西城との対によるものですが、当時もそのように呼ばれていたのかは
          定かでありません。蜂須賀氏入部後は、単に西条城と称されていたようです。



       <手記>
           阿波東交番南西の雑木林の区画が、戎台と呼ばれる天守台跡とされています。林の西側には石碑
          があるようなのですが、民家の敷地を抜けなければならず、先人のサイト情報では無許可で訪れるの
          は憚られるとのことで遠慮しました。雑木林を外側から眺めると、手前の耕作放棄地はおそらく堀跡と
          思われます。
           江戸時代の絵図などによれば、城は南北に長い方形の主郭を基調とした、単郭に近い御殿城だった
          ようです。阿波九城と言っても、西条城は領外から攻撃されるおそれの比較的少ない場所にあるので、
          城塞というより行政府といった様相だったのかもしれません。

           
 天守台とされる雑木林を外側から。
 手前の耕作放棄地は堀跡か。
同上。 


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