細工所城(さいくしょ)
 別称  : 荒木城、井串城
 分類  : 山城
 築城者: 荒木氏か
 遺構  : 曲輪、堀、土塁、虎口
 交通  : JR福知山線篠山口駅からバスに乗り、
      「福住小野」下車徒歩30分


       <沿革>
           八上城主波多野氏重臣荒木山城守氏綱の居城とされる。荒木氏は丹波国天田郡荒木を本貫
          とする国人と考えられているが、その出自は定かでない。16世紀前半に波多野秀忠家臣として
          船井郡代を務めた人物に荒木清長があり、氏綱との関連が考えられるが確証はない。氏綱も、
          最盛期には船井郡の園部まで支配していたとされる。
           天正五年(1577)、丹波攻略を任された明智光秀が籾井・安口両城を攻め落とすと、敗残兵が
          「荒木・波多野両城」に逃げ込んだ。翌六年(1578)には、光秀に加え滝川一益・丹羽長秀らの
          軍勢が「荒木山城守城」へ攻め寄せた。城方は激しく抵抗したらしく、「井串極楽 細工所地獄 
          塩岡岩が鼻立ち地獄」との俗謡が残るとされる。井串・細工所・塩岡はそれぞれ細工所城の3つ
          の攻め口を表し、井串口以外のルートからの攻城が困難であったことを示している。
           『信長公記』によれば、水の手を断たれたことで開城を余儀なくされた。光秀は、氏綱の武名を
          惜しんで仕えるよう説得し、氏綱は仕官したとも、自身は隠棲して長男の氏清を出仕させたとも
          いわれる。
           氏清およびその弟高兼は、天正十年(1582)の本能寺の変で光秀に従い、山崎の戦いで討ち
          死にした。細工所城はこのときまでに廃されたとみられるが、詳細は不明である。なお、高兼の
          娘(瑞峯院)は三春藩主秋田実季の側室となり、その兄弟の高次は三春藩士となった。高兼の
          子高綱は瑞峯院と実季の娘を娶り、その曽孫は3代藩主輝季の養子となり、頼季と名乗って藩を
          継いだ。


       <手記>
           細工所城は、篠山川と籾井川の合流点に臨む山城です。南東3kmほどのところにある籾井城
          と並び、多紀郡と船井郡を往来するうえで避けては通れない要衝にあります。地元では荒木城
          の呼び名の方が通っているようですが、これは荒木氏の城の意なので、地名をとって細工所城
          とした方が正式と思われます。南西麓の細友館(細工所公民館)駐車場が登城者用に開放され
          ていて、登城路も整備されているのが有難いところです。
           登りはじめてまもなくの尾根先端に稲荷神社があり、その境内は広く削平されていて、背後に
          立派な土塁と堀切が見られます。おそらく居館跡と思われ、山麓にこれだけの居館部の遺構が
          残っているというのは、かなり珍しいのではないでしょうか。そこから先は、断続的に腰曲輪状の
          段差などが認められるものの、しばらく尾根筋の単調な登りが続きます。
           主郭南西尾根に差し掛かると、そこからは鎖場の急斜面となります。腰曲輪群ではあるものの
          登攀はとにかく大変で、細工所地獄と謳われるのも納得です。鎖を辿る前に、尾根先側の曲輪
          を2つ下ると、尾根南端とみられる堀切があるので見逃さないようにしましょう。
           ヒィヒィ言いながら鎖場をクリアすると、まもなく主郭です。主郭は東西それぞれ2段に均されて
          いて、北側尾根にも2段の腰曲輪があります。面積もそれなりにあり、籾井城は望めないものの
          樹木が整理されているため眺望もなかなかです。
           主郭から南東尾根に下りていくと、2条の堀切と尾根筋の曲輪があります。曲輪は2段になって
          いて、下段が広く、上段は低い土塁に囲まれた櫓台状を呈しています。こちらが井串極楽といわ
          れる井串口とみられ、曲輪形成はしっかりしているものの、たしかに傾斜は細工所口よりも緩く、
          なにより堀切の造作が甘いのが気になりました。
           全体としてみると、細工所城は籾井城と比べてかなり規模の大きな城です。この点は、荒木氏
          と籾井氏の波多野家中での実力差をそのまま反映しているように思います。籾井氏といえば、
          丹波の青鬼こと籾井教業が知られていますが、その実在は疑問視されています。実際に武名を
          挙げているのは荒木氏綱の方であり、この点も細工所城の格の高さと通じているといえるのでは
          ないでしょうか。さらに敷衍すると、籾井氏の子孫が氏綱に仮託して、祖先の功績を祭り上げたと
          する見方が成り立つようにも感じます。

 細工所城跡を望む。
登城口。 
 稲荷神社の土塁。
稲荷神社前の削平地。 
居館跡か。 
 土塁と背後の堀切。
居館跡脇の開口部。 
旧道か。 
 居館跡からの尾根筋の登山道。
 腰曲輪を貫いて堀底道を通したものか。
主郭南西尾根の虎口状地形。 
 尾根先端側の腰曲輪。
その下の腰曲輪。 
 その下にある尾根先端の堀切。
主郭南西尾根の鎖場の急斜面。 
 主郭下の腰曲輪。
同上。 
 主郭西側下段から上段を望む。
主郭下段からの眺望。 
 主郭上段のようす。
主郭北側尾根の腰曲輪。 
 同じく2段目の腰曲輪。
主郭東側下段を俯瞰。 
 その下の腰曲輪。
腰曲輪下の堀切。 
 南東尾根の曲輪上段。
 低い土塁に囲まれています。
同じく下段のようす。 
 南東尾根下段の曲輪から上段側を望む。
南東尾根先端の堀切。 


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