佐沼城(さぬま) | |
別称 : 鹿ヶ城、佐沼要害 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 照井高直か | |
遺構 : 堀、土塁 | |
交通 : 仙台駅からバスに乗り、「登米市役所前」 下車徒歩10分 |
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<沿革> 『封内風土記』等によると、藤原秀衡の家臣・照井太郎高直によって築かれたとされる。高直は 文治五年(1189)の奥州合戦で仁田忠常に敗れ討ち死にした。ただし、照井氏の居館は現在の 東北自動車道平泉前沢IC近くの字照井舘にあったとみられており、佐沼付近を領していたという 裏付けはない。 一方、『葛西盛衰記』には「顕家御陣敗れて日和山の城に下り 寺池之城佐沼城を築き」とある。 これが正しければ、延元三/建武五年(1338)に北畠顕家が戦死した際に、南朝方として奥州の 所領へ下向していた葛西貞清・高清父子によって築かれたことになる。ちなみに、鹿ヶ城の別称 は築城の際に鎮護として古鹿を埋め、人柱ならぬ鹿柱にしたことによると伝えられる。 高清は、まもなく北朝方に転じたとされているが、佐沼城はその間に、経緯は不明だが北朝の 奥州探題で足利一門の大崎氏の所有に帰したとみられる。佐沼城北麓の荒川(佐沼川)沿いに ある御前巻の由来によれば、文明年間(1473〜87)に佐沼城主佐沼直信の妻・佐沼御前が川の 渕に入水自殺したといわれる。御前は大崎政兼の娘で、直信が主家に背いて進退に窮したため とされる。直信のその後は不明だが、天文年間(1532〜55)には大崎家臣石川氏が城主と務め ていた。 天正十八年(1590)の奥州仕置で大崎義隆・葛西晴信が改易されると、その旧領に豊臣家臣 木村吉清・清久父子が封じられた。このとき、晴信は佐沼城に籠って抵抗したものの敗れて戦死 したともいわれるが、記録にはみられない。 吉清は寺池城に、清久は名生城に入ったが、その圧政に耐えかねた大崎・葛西両氏の旧臣ら が同年十月に蜂起し、葛西大崎一揆が発生した。一揆は領民を巻き込んで木村領全域に拡大 し、木村父子は佐沼城へ追い詰められた。これに対して、秀吉の名代として奥州に留まっていた 浅野長吉(長政)は、伊達政宗と蒲生氏郷に鎮圧を命じたが、氏郷は政宗こそが一揆を扇動した 張本人であるとする伊達家臣須田伯耆の密告を受け、名生城を攻め落とすとそのまま籠城した。 一方の政宗は独断で佐沼城へ進軍し、木村父子を救出して名生城へ送り届けた。 一揆勃発の責を受けて木村氏が改易されると、政宗がその旧領に移された。佐沼城には湯目 景康が入れられ、文禄四年(1595)には津田姓へ改めた。江戸時代に入っても引き続き津田氏 が佐沼城こと佐沼要害を7代にわたって領したが、宝暦七年(1757)に故あって改易され、亘理 倫篤が代わりに高清水から5千石で佐沼に移された。以後、亘理家が4代を数えて明治維新を 迎えた。 <手記> 佐沼城は迫川と荒川の合流点に臨む小丘上の城です。御前巻の渕のある荒川は、かつての 佐沼川(迫川か)の本流で、河水が渦を巻くほど深かったそうです。また、南西麓の登米市歴史 博物館付近には鯛沼があったということで、川や沼など水に囲まれた要害であったことがうかが えます。 本丸は鹿ヶ城公園となっていて、麓には内堀跡が巡っています。本丸には土塁が残っている ほか、北東隅に櫓台状の土壇があり、出雲神社が祀られています。ここには弘安年間(1278〜 88)の供養碑とされる板碑も建っていますが、城とどちらが先に存在したのかは分かりません。 佐沼城は要害の地にはありますが、規模としてはさほど大きくない城です。自業自得とはいえ、 ここに閉じ込められて囲まれた木村父子の恐怖は相当なものだったことでしょう。 |
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鹿ヶ城大橋から佐沼城跡を望む。 | |
本丸下の内堀跡。 | |
同上。 | |
同上。 | |
同上。 | |
本丸のようす。 | |
本丸の土塁。 | |
本丸北東隅の出雲神社土壇。 | |
出雲神社と板碑。 | |
本丸からの眺望。 | |
御前巻。 | |
鯛池跡から旧亘理邸を望む。 |