石巻城(いしのまき)
 別称  : 日和山城
 分類  : 山城
 築城者: 葛西氏
 遺構  : 曲輪跡か
 交通  : JR石巻線・仙石線石巻駅徒歩25分


       <沿革>
           下総国葛西荘を本貫地とする秩父平氏流の葛西清重は、源頼朝にえて奥州総奉行に任じられ、
          奥州に広く所領を得た。清重が自領経営の拠点を設けたのは、石巻と寺池の2説あり定かでない。
           清重の後は関東と奥州の2流に分かれたとみられるが、その系譜は仙台藩と盛岡藩それぞれに
          伝わる『葛西系図』で大きく異なる。奥州千葉氏の由緒では、千葉頼胤の子・胤信が葛西時清の
          養子となって清信と名乗り、建治二年(1276)に奥州へ下向したといわれるが、葛西氏側に当該の
          記録はない。また、仙台系図では葛西宗清・貞清父子の代に南北朝時代を迎えたとされているが、
          盛岡系図では貞清の父を清信としており、実在すれば宗清と清信は同一人物とも考えられている。
          ただし、その場合でも清信は時清の実子とされる。
           このころまでには、奥州葛西氏は寺池系と石巻系に分裂していたとする説が有力視されている。
          ただし、前述の通り寺池城と石巻城のどちらがもとからの葛西氏の居城だったかは詳らかでない。
          葛西35万石とも称される最大版図を築いた葛西満信から、その孫の政信の代までには、寺池城が
          惣領家の居城となっていたとみられる。
           一方、同時期には石巻に葛西満重がおり、伊達成宗の次男・宗清がその養嗣子に入って政信と
          激しく争ったとされる。宗清は大森城主山内首藤貞通を攻め滅ぼして勢力を拡大したが、宗家家督
          は政信の子・晴重が継ぎ、宗清の子は稗貫氏を継承したとされるなど不明な点が多い。
           晴重の子ないし弟とされる晴胤は、やはり伊達家から養子に入った伊達稙宗の子・晴清との争い
          を制して、葛西氏を統一したとみられる。居城を石巻から寺池に移したのは晴胤とする説もあるが、
          あるいは寺池葛西氏の晴胤が石巻葛西氏を吸収し、石巻城を廃したとも考えられる。
           いずれにせよ、葛西氏の時代を通して石巻城の具体的な動静は明らかになっていない。遅くとも、
          天正十八年(1590)の奥州仕置で葛西氏が改易されるまでには廃城となったとみられる。葛西旧領
          を与えられた伊達政宗は、関ヶ原の戦い後の新規築城に際して、青葉山榴ヶ岡と並び日和山の
          3か所を候補に挙げたともいわれる。しかし、石巻城が再興されることはなく、石巻は北上川の河港
          として発展した。


       <手記>
           日和山は石巻のシンボル的な山であり、東日本大震災のときは多くの市民がこの山へ避難した
          ため、テレビなどで目にした人も多いでしょう。津波の被害をまともに受けた南麓一帯には石巻南浜
          津波復興祈念公園が新たに建造され、被災した門脇小学校は震災遺構となっています。
           石巻城跡は鹿島御児神社や日和山公園、および住宅地などとなっており、はっきりとした遺構は
          みられません。境内から先端に伸びる尾根筋は数段の広場となっており、腰曲輪群のようにも見え
          ます。また、桜が植えられている谷筋も段築状になっていますが、やはり城と直接関係があるのか
          は不明です。
           発掘調査では、本殿裏手から堀跡が検出されているそうです。北辺と西辺に堀を設ければ城郭
          として成立するので、1条ないし2条程度の空堀があったのでしょう。
           石巻は、古代には「いしみなと」と呼ばれていたそうで「石港」の転訛とも考えられます。古くから
          北上川河口の港町であった可能性はありますが、他方で入植したばかりの葛西氏が外洋への港を
          欲していたとも思えません。私見としては、葛西氏の当初の拠点はやはり寺池にあり、統治が落ち
          着き勢力が拡大するなかで、石巻に新たな基地を設けて分家が成立したものと推察しています。

           
 北東から日和山を望む。
日和山の碑と説明板。 
 鹿島御児神社。
先端方面の尾根筋。 
腰曲輪群か。 
 谷筋の段築。
日和山から海側を望む。 
中央は石巻南浜津波復興祈念公園。 
 日和山から北上川の中瀬方面を臨む。
本殿背後の堀が検出されたとする付近。 


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