猿毛城(さるげ)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 柿崎氏
 遺構  : 曲輪、堀
 交通  : 北陸自動車道柿崎ICから車で20分


       <沿革>
           柿崎城主柿崎氏によって詰城として築かれたとみられているが、詳しい時期は不明である。
          また、柿崎城に代わる居城となったとする向きもあるが、確証はない。後述の経緯から、遅く
          とも上杉謙信の重臣として活躍した柿崎景家の代には存在していたとみられる。
           景家は上杉家中随一の猛将として知られ、内政や外交にも携わった。巷説では天正三年
          (1575)に織田信長との内通を疑われて粛清されたとされるが、今日ではこれを否定し、病死
          とするのが一般的である。
           景家の子晴家は、謙信の2人の養子のうち景虎派であったことから、天正六年(1578)三月
          十三日に謙信が急死した翌日に景勝派によって殺害されたと伝わる。ただし、前年にやはり
          織田家へ通じたとして誅されたとする説もあり、景家・晴家父子の末期については不明な点が
          多い。
           いずれにせよ、謙信死後の家督争いである御館の乱に際して、柿崎家中は故・晴家に近い
          親景虎派と、晴家の子・千熊丸(憲家)を擁する親景勝派に分裂した。柿崎家臣上野九兵衛を
          中心とする親景勝派は、親景虎派の籠もる猿毛城を攻め立て、同族同士での激しい攻防戦が
          繰り広げられた。結果として親景虎派は全滅し、乱自体も景勝の勝利に帰して憲家は柿崎家
          を再興した。
           その後の猿毛城については不明である。


       <手記>
           柿崎川上流域にある、地図を見て分かるとおりの円錐形の山が猿毛城跡です。主城域は
          近年までド藪だったようなのですが、地元有志の方々が精力的に整備してくださったそうで、
          とくに主郭はすっきり見通しよく刈りこまれていました。その素晴らしさは、城跡に関心がある
          わけでもなさそうなハイカーのご一行と遭遇したことからもうかがえます。その眺望たるや、
          柿崎領と日本海を眼下に睥睨できます。
           しかしながらこの絶景に行き着くまでが大変で、比高は登山口の城山神社から250mほど
          あります。道は整備してくださっているとはいえ、最初の腰曲輪まででも180mくらいは上がら
          なければなりません。このときは、なんと総勢12名という城跡オタクのオフ会に参加したため、
          時間はかかりましたが苦しい道のりを楽しく登ることができました。
           最初の曲輪から主郭下までは腰曲輪群が尾根筋に連なり、なかには曲輪の付け根に堀切
          が穿たれている箇所もありました。主郭下にはやや広い曲輪があり、ニの郭と思われます。
          これだけの高所の山城にもかかわらず、かなり整っている城砦だという感じです。とはいえ、
          ここを「居城」とするにはあまりに山深く、現実的とはいえないでしょう。こちらはやはり「詰城」
          であり、柿崎城に代わる居城は、柿崎川中流域にあってより造作の規模の大きな岩手城
          する説の方を支持したいと思います。

           
 猿毛城跡を望む。
 中央奥の再高所ではなく、ひとつ手前の
 こんもりした山。
登城口。 
 最初に行き着く腰曲輪。
 ここまで比高180mくらい上がります。
腰曲輪の続く尾根筋。 
 腰曲輪群の切岸。
腰曲輪付け根の堀切跡。 
 主郭下のやや広い曲輪。
 二の郭か。
主郭虎口か。 
 主郭のようす。
主郭からの眺望。 


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