佐料城(さりょう)
 別称  : 讃綾の館
 分類  : 平城
 築城者: 香西資村
 遺構  : 堀
 交通  : JR予讃線鬼無駅徒歩20分


       <沿革>
           讃岐の大身領主香西氏の居館とされる。香西氏は、羽床城主羽床資高の四男新居
          資光の子資村が承久三年(1221)の承久の乱で幕府方につき、戦功により香川・阿野
          両郡の郡司に任じられたことにはじまる。資村は苗字を香西とし、勝賀山に詰城として
          勝賀城を築き、山麓に平時の居所として佐料城を設けた。
           南北朝時代に入ると、香西氏は北朝の細川氏に属して勢力を伸長させた。とくに香西
          元資は、同じく讃岐の香川元明・安富盛長・奈良元安とともに、応仁の乱で細川勝元を
          支えて細川四天王と呼ばれた(『南海通記』)。元資の長男元直は、在京して細川氏の
          補佐にあたり、勝賀城主は次男元綱が継承した。一般に、元直の系統を上香西、元綱
          の系統を下香西と呼びならわしているが、所領の分割があったかは定かでない。
           上香西氏は細川氏の内紛に巻き込まれて衰退したが、元綱の子元定は、大内義興
          に属して香西氏の最盛期を創出した。三好氏の勢力が讃岐に及ぶとその傘下に入った
          が、なおも勢力は維持していた。
           元定の曽孫佳清は、土佐を統一した長宗我部元親の侵攻に備えるため、天正三年
          (1575)に藤尾城の築城を開始した。同五年(1577)には、まだ未完成だった藤尾城に
          居城を遷した。これにより、佐料城は廃城となったとみられる。


       <手記>
           勝賀城へ向かう途中、奥津神社に折れる道路の脇に、佐料城の説明板があります。
          城跡は神社の少し北の区画で、南辺と西辺の堀の一部が残っています。しかしながら、
          西辺の堀は民家と民家に挟まれて、直接目にすることは難しそうです。南辺の堀は、
          南東隅から入って見学でき、その入り口には『南海通記』『南海治乱記』の著者である
          香西成資の父植松吉兵衛時信(時蔭)の墓碑があります。
           別名の「讃綾(さりょう)の館」とは、「讃岐国綾郡(阿野郡)」から来ているということで、
          讃綾の字がいつしか佐料に転じたものと推測されます。北東に対して僅かながら斜面
          の角に位置しているものの、城というよりつとめて平時の居館という印象です。

           
 佐料城跡説明板。
南辺の堀。 
 植松吉兵衛時信の墓碑。
佐料城跡付近から勝賀城跡を望む。 


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