![]() |
笹下城(ささげ) |
| 別称 : 間宮氏笹下本城、篠箇城 | |
| 分類 : 平山城 | |
| 築城者: 間宮氏 | |
| 遺構 : なし | |
| 交通 : 京浜急行屏風浦駅またはJR根岸線 洋光台駅徒歩20分 |
|
<沿革> 後北条氏重臣・間宮氏の本城とされる。間宮氏は佐々木氏の庶流で伊豆国田方郡間宮(現・ 函南町)を本貫とし、笹下は佐々木の転訛とも伝えられる。北条早雲(伊勢宗瑞)・氏綱父子に 応じて関東入りしたと考えられているが、それ以前から鎌倉周辺に間宮氏の名が散見される ため、笹下城間宮氏はもともとこの地に土着していたところ、関東へ進出した北条氏に臣従した とする説もある。 永正七年(1510)の権現山の戦いで、「神奈川の住人間宮の某」が奮戦する様子が『北条記』 に記されており、間宮信盛ないしその父・信冬を指すとみられている。ただし、笹下城がいつごろ 築かれたのかは定かでない。 間宮氏はいくつかの分家を輩出したが、笹下城は宗家の居城であり続けた。信盛の孫の康俊 は玉縄衆に属し、水軍を統率して里見氏と対峙するなど、北条家中で重きを成した。 天正十八年(1590)、康俊は小田原の役において山中城の守将の一人として赴いたが、城は 半日で落ち、北条氏勝を逃した後に壮絶な討ち死にを遂げた。跡を継いだ孫の直元は、新たな 関東国主となった徳川家康に仕え、後に生野奉行や佐渡奉行を務めている。ただし直元の所領 はいったん下総国に置かれたため、小田原の役を以て笹下城は廃城となったと推測される。 その後、間宮本家は正次の代まで本牧代官職を世襲し、寛文五年(1665)に所領を安房・下総 へ移された。本家庶流の子孫に、間宮林蔵がいるとされる。また、康俊の弟・綱信の系統である 氷取沢間宮家からは『新編武蔵風土記稿』などの編纂に携わった間宮士信を輩出し、蘭学者の 杉田玄白も間宮氏の末裔と称している。 <手記> 笹下城跡一帯は洋光台として開発され、旧地形をうかがうのも困難です。『日本城郭大系』に よると洋光台1-16付近が字内屋敷といい、江戸時代に陣屋が置かれていたとされています。 同書掲載の縄張り想定図にしたがえば、その北西が笹下城の中心部で、国土地理院地図の 年代別航空写真を見ると、現在の洋光台一丁目公園の東側に方形の頂部区画が見受けられ、 当時の本丸跡ではないかと推察されます。 主城域から谷戸を挟んだ南東の小峰には若宮御霊神社神社があり、裏手ピークに若宮郭が あったとされています。若宮御霊神社は、内屋敷にあった御霊権現社を若宮神社に合祀した もので、御霊権現社は天文年間(1532~55)に康俊の父・信元が創建したと伝えられている そうです。 主城域の北麓にある成就院の門前には空堀跡の石碑が置かれ、その南東が実際の堀跡と されているようですが、どちらかというと自然の谷戸地形に見えます。さらに北進して、東福寺 の北東に陣ヶ台や中ノ丸の字があったようで、出丸跡とされています。当該の付近には住宅地 の削り残しのようなピーク地形が見られるものの、実際に城砦があったのかは不明です。その 北側にこんもりした小ピークの林があり、想定図にある安房洲明神社の跡地と思われますが、 数基の墓が建っているのみです。小ピークの西側の笹下中央公園には雑色杉本遺跡があり、 笹下城の一部ではないかと目されていたようですが、発掘調査の結果、城館遺構は検出され なかったそうです。 全体的にみて、笹下城はそれほど要害の城館であったとは思えません。ただし規模は大きく、 周辺には氷取沢をはじめ多くの分家の陣屋があったとされることから、笹下にも一族重臣らの 屋敷などを集め、間宮氏の政治的な本拠地として機能していたものと推測されます。 |
|
| 本丸跡と推定されるあたり。 | |
| 同箇所を洋光台一丁目公園から。 | |
| 洋光台一丁目公園。 | |
| 総屋敷跡とされるあたり。 | |
| 内屋敷跡(江戸時代の陣屋跡)とされるあたり。 | |
| 若宮御霊神社(若宮郭)の先端下。 | |
| 若宮御霊神社。 | |
| 成就院。 | |
| 成就院門前の空堀跡石碑。 | |
| 空堀跡と呼ばれる谷戸。 | |
| 南から出丸跡を望む。 | |
| 出丸跡とされるあたりの削り残し地形。 | |
| 出丸跡北側の小ピーク。 | |
| 小ピークの頂部。安房洲明神跡か。 | |
| 笹下中央公園。 | |
| 雑色杉本遺跡。 発掘調査でも城館遺構は検出されなかったそうです。 |
|