山中城(やまなか) | |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 北条氏康か | |
遺構 : 曲輪跡、土塁、櫓台、堀、土橋、虎口など | |
交通 : 箱根峠より車で10分 | |
<沿革> 永禄年間(1558〜70)頃、武田氏との駿東地方を巡る争いのなかで、北条氏康によって築かれ たと推測されている。当時の規模は不明であるが、箱根路を内包する形で、三の丸の一部と本丸・ 二の丸、そして元西櫓あたりまでぐらいのものであったと推測されている。 箱根の険を守る拠点として当初から機能していたものと思われるが、山中城が最も重要視された のは、氏康死後、中央で覇権を握った豊臣秀吉の脅威が迫ってからであった。天正十五〜十七年 (1587〜89)頃にかけて、北条氏政・氏直父子は山中城を全面改修し、堀障子の強化や岱崎出丸 の構築などを行った。 北条氏の戦略は、山中城で豊臣軍を足止めし、この間に同時に改修が施された伊豆の韮山城の 兵力で三島の兵站を切り、豊臣勢を撤退させるというものであったと推測されている。 天正十八年(1590)、豊臣軍は韮山城を包囲した上で、豊臣秀次率いる総勢7万の兵で山中城 を攻めた。この攻城戦は、いくつかの文献に詳細に記されている。先鋒は中村一氏と一柳直末で、 戦闘は未明より始まった。守城側は、玉縄城主北条氏勝を大将に、松田康長・間宮康俊ら4千ほど であった。この攻防戦は、小田原の役で最大ともいえる激戦となり、攻城軍は直末をはじめ多数の 戦死者を出した。 しかし、西側からの攻城を担当した徳川家康軍が城内に突入し、岱崎出丸も人海戦術で落とされ ると、数で圧倒する豊臣勢は徐々に城兵を押していった。それでも、しばらくは持ちこたえていたが、 総司令官である氏勝が落城前に城を脱出してしまったため城兵は混乱し、巻き返しの機会は失わ れてしまった。結局城は半日で落城し、松田・間宮以下城兵は全滅した。(山中城と異なり力攻め されることはなかったとはいえ)3ヶ月余持ちこたえた韮山城とは対照的であった。 山中落城と韮山城包囲により、北条氏の戦略はあっけなく瓦解した。戦後山中城は自然廃城に なったものと思われる。 <手記> 日本百名城の代表格であるとともに、小田原の役最大の激戦の1つを経験し、また東海道に面し、 保存状態も抜群であるということで全国的に知られた城です。その最大の見所は、後北条氏特有の 築城術である堀障子です。堀障子とは、空堀の底にわざと土手で仕切りを設け、敵兵の堀底の横移 動を封じ、城内から狙い撃ち易くする工夫です。一見土手の上を歩かれてしまって無意味ではないか と思ってしまいますが、攻め手の身になれば、城兵の銃眼に常に体を晒すことになるため十分に脅威 であったと思われます。 実は十数年ほど前に一度訪れていて、そのときもこの堀障子に感激しましたが、そのときに比べて 保存状況が悪化しているように見えて不安でした。というのも、以前この堀障子には保存と保護のた めに芝が貼ってあったのですが、再発掘しているのか冬のうちに枯れてしまったのか、すっかり剥げ 落ちて赤土がむき出しになっていたためです。見ていて非常に危なっかしい状況だったので、早急に 対策していただきたいと思います。 またもう1つ面白いのは、二の丸や岱崎出丸、西櫓などの大きな曲輪の内部が、平らに均されずに 緩斜面のままになっていることです。これでは、おそらく大きな建物はなく、あったとしても掘立程度の 急造の建築物だったものと推測されます。山中城は改修が完了する前に戦闘を迎えたといわれてい ますが、おそらくは堀や土塁など外郭線の整備はほぼ終わっていたものの、曲輪内部はほとんど手 付かずの状態だったのではないでしょうか。そのくらい、これほどの大城郭にしては不自然に感じま した。 山中城は、車で訪れるかバスを利用するしかないという交通の不便はあります。ただ、観光バス用 の駐車場まであるほど一般にも知られた観光名所ですので、箱根を訪れる際にはちょっと寄ってみる だけでも価値がある城だと思います。城内の遺構だけでなく、富士山と愛鷹山と駿河湾を一望の下に 収められる絶景ポイントとしても楽しめます。 |
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山中城最大の見所、障子堀。 | |
本丸のようす。 | |
二の丸。広大だが傾斜が残っている。 | |
徳川軍との激戦が行われた西櫓跡。 | |
飲料水の貯水池でもあった三の丸堀。 | |
岱崎出丸のようす。奥に三島市街と駿河湾が広がる。 | |
岱崎出丸の一の堀(復元)。 |