瀬名館(せな) | |
別称 : なし | |
分類 : 平城 | |
築城者: 瀬名一秀 | |
遺構 : なし | |
交通 : JR東海道本線/静岡鉄道静岡清水線草薙駅 からバスに乗り、「瀬名リンク西奈前」下車 |
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<沿革> 今川氏庶流瀬名氏の居館である。瀬名氏は堀越氏とも称した遠江今川氏の今川貞延が 遠江守護斯波氏との戦いで文明六年(1474)に戦死した後、その長男である一秀が宗家の 今川義忠から駿河国瀬名郷を与えられて移り住んだことにはじまる。次男の貞基は、遠江 堀越郷に留まり堀越氏を継承した。 一秀は義忠の遺児・龍王丸(今川氏親)を輔弼し、今川家の一門重臣に列した。一説に、 一秀・氏貞父子は遠江二俣城の城将を務めたとされる。瀬名姫とも呼びならわされる徳川 家康の正室・築山殿は、氏貞の次男・関口親永の娘である。 氏貞の嫡男・氏俊(親永の兄)は氏親の娘を娶っていたが、その子・氏明は永禄十一年 (1568)の武田信玄の駿河侵攻に際して今川氏から寝返った。氏明は信玄から偏諱を受け て信輝と改名したが、その後の動静は詳らかでない。信輝の子とされる政勝は、天正九年 (1581)ごろから家康に仕えたとされる。同十八年(1590)の家康の関東入国にも付き従い、 瀬名氏は江戸時代に旗本として存続した。瀬名館は早ければ氏明の代で、遅くとも家康の 関東移封の際に廃城となったものと推測される。 <手記> 瀬名館は図書館の入っている複合施設「リンク西奈」の西側一帯にあったとされています。 東方には初代・瀬名一秀の墓のある光鏡院が建っていますが、館の遺構や説明板などは 見当たりません。 リンク西奈の北西には大門の字があり、その北側の瀬名公民館には、館とは直接関係は ありませんが江戸時代の「瀬名の郷倉」が残っています。それによると、瀬名は昔から「瀬名 千石米どころ」といわれた穀倉地帯だったそうです。それだけ生産性の高い地域であったと するなら、この地を与えられた一秀に対する今川宗家の信頼と、一門としての家格の高さを 物語っているように感じました。 ちなみに、やはり館とは関係ありませんが、郷倉の手前には理由は不明ながら駿府城の 御紋石と石矢石という石材が置かれていました。 |
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リンク西奈。 | |
瀬名館跡現況。 | |
瀬名の郷倉。 | |
駿府城の御紋石と石矢石。 |