仙波氏館(せんばし) | |
別称 : なし | |
分類 : 平城 | |
築城者: 仙波家信か | |
遺構 : なし | |
交通 : JR川越線・東武東上線川越駅徒歩15分 | |
<沿革> 武蔵七党の1つ村山党の庶流仙波氏の居館とされる。仙波氏は、山口(村山) 家継の子家信にはじまるとされる(『武蔵七党系図』)。家信は、『保元物語』に 七郎高家の名で登場し、村山党の有力な武士の1人として挙げられている。 仙波氏は、鎌倉時代を通じて御家人として存続したが、応安元年(1368)の 武蔵平一揆の乱で国人一揆側に与して敗れて衰退した。永禄二年(1559)に 編纂された『小田原衆所領役帳』によれば、仙波七郎と仙波藤七郎がそれぞれ 相模国と伊豆国に所領を得ている。両者は武蔵仙波氏の後裔と考えられるが、 詳しい系譜は不明である。他方で武蔵国に仙波氏の所領は認められないこと から、このときまでには仙波氏は本貫地を離れており、館も廃されていたものと 推測される。 <手記> 現在の長徳寺境内が館跡とされています。『新編武蔵国風土記稿』によれば、 長徳寺の存在が確認されるのは永正十一年(1514)とされ、後北条氏の進出 以前に、この年までに館が廃されていた可能性は考えられます。 館は、川越城や喜多院とは地続きの台地の崖端にあり、典型的な鎌倉武士 の館地形といえます。東麓には現在新河岸川が流れていますが、これは近代 の開削によるもので、当時は眼下に入間川の氾濫原の湿地帯が広がっていた ようです。 『記稿』の編纂時には、まだ境内に土塁や堀跡がみられたようですが、今では 残っていません。ただ、寺の南北両辺はそのまま崖下へ続く生活道路となって おり、あるいは館の堀兼切通し道の跡を踏襲したものかもしれません。 |
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長徳寺山門と仙波氏館跡標柱。 | |
南辺のようす。 道路は堀兼切通し道跡か。 |