芹沢城(せりざわ) | |
別称 : なし | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 芹沢良忠 | |
遺構 : 土塁、堀 | |
交通 : 常磐自動車道千代田石岡ICより車で40分 | |
<沿革> 大掾氏一族芹沢氏の居城である。大掾氏は平国香を祖とし、芹沢氏は多気義幹の次男茂幹を 祖とする。多気氏は大掾氏宗家であったが、多気義幹が謀略により失脚し、以後分家の馬場氏 が宗家を継承した。茂幹は馬場大掾氏の庇護を受けたが、茂幹の曾孫幹文は足利氏へ人質に 出された。幹文は、足利氏より14世紀中ごろに相模国高座郡芹沢(神奈川県座間市)に所領を 与えられ、芹沢氏を称した。 幹文から4代後の良忠は、至徳二年(1385)に府中城の大掾氏宗家のもとへ下向した。良忠 は大掾詮国の娘を娶っており、大掾宗家の要請を受けての下向と考えられている。1400年前後 に、良忠は大掾氏より行方郡に所領を得て館を構えた。これが芹沢城の起こりである。与えられ た領地も芹沢と呼ばれていたとされるが、偶然の一致か芹沢氏によって地名が改められたのか は不明である。 永享十年(1438)の永享の乱の折、良忠の孫幹兼は持氏方についたため、乱の後に会津の 蘆名氏を頼って落ち延びた。幹兼の子俊幹は、大掾頼幹に預けられたとされる。幹兼は、永享 十二年(1440)の結城合戦で討ち死にし、戦後に元服した俊幹が芹沢の旧領に復帰することと なった。この間、芹沢は大掾宗家の管理下にあったものと推測されるが、詳細は不明である。 天正十八年(1590)の小田原の役に際して、大掾氏一族は北条氏に与して豊臣秀吉のもと に参陣しなかったため、戦後その所領は佐竹氏に認められた。佐竹義重・義宣父子は府中城に 大掾清幹を攻め滅ぼし、翌十九年(1591)には鹿島・行方両郡の大掾氏一族らいわゆる「南方 三十三館」の諸将を、太田城に招いて殺害した。このとき、芹沢国幹は病と称して艱難を逃れた とされる。佐竹父子はすかさず鹿島・行方両郡の平定に乗り出すが、芹沢城に対しては手を出さ なかった。芹沢氏がかねてより佐竹氏と関係をもっていたためとも、両郡攻略の基軸にしようと 考えていたためともいわれる。国幹は、この状況を逆に苦とし、城を放棄して出奔した。ここに、 芹沢城は廃城となったものと思われる。 国幹は、その後宍戸城主となった秋田実季に仕えた。子の通幹のときに水戸藩に召し抱えられ、 結局もとの芹沢の地に知行を与えられて代々居住した。その子孫が、新撰組初代局長として知ら れる芹沢鴨(光幹)と伝わる。ただし、芹沢鴨の先祖は鹿島成幹とも伝えられる。成幹は嫡系多気 氏流ではなく分家の吉田氏流に属するため、鴨の出自には不明な点もある。 <手記> 芹沢城は、霞ヶ浦へ注ぐ梶無川中流の谷戸に臨む丘陵の先端にあります。眺望にすぐれ、谷戸 の先の湖まで一直線に望むことができます。 丘の麓に芹沢鴨の生家があり、その裏手にピンと突き出た丘の先端部があります。私はこれが 芹沢城址だと思ってよじ登ったのですが、後で知ったことにはここは城の一部に過ぎませんでした。 芹沢城址は、上の地図に緑丸で囲った丘全体が城域だったようです。とはいえ、丘そのものはとく に険しくもなく、遺構も南東隅付近に土塁や堀跡が断片的に見受けられる程度ということで、いづれ にせよ全体像は把握しにくい城跡のようです。ただ、立派な城址碑があるというのを見逃したのは 返す返すも不覚でした。 さて、私が登った西端の突出部ですが、ここの付け根には1本規模の大きな堀切がありました。 また、突出部への東からの登り口には、虎口状遺構や土塁跡が見受けられ、貴重な遺構の1つで あると思われます。 芹沢鴨の生地ということですが、観光的には残念ながらまったく寂れているといわざるを得ません。 集落内には1つだけ商店があり、その一角にわずかながら新撰組グッズコーナーがあります。店の 主人は話好きなようで、訪れる人もいないこともあってか親切にいろいろと教えて下さいました。 ちなみに、この記事はその商店で買った新撰組ブランドの地酒「尽忠報国」を賞味しながら書いた ものです(笑)。 |
|
芹沢城址西端部からの眺望。 中央奥の切れ込み部に、霞ケ浦が見えます。 |
|
堀切跡。 | |
土塁跡か。 | |
おまけ:芹沢鴨生家跡。 |