斯波武衛邸宅(しばぶえい) | |
別称 : 武衛原館 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 斯波武衛家か | |
遺構 : 土塁、堀、虎口 | |
交通 : 東名高速道路菊川ICから車で10分 | |
<沿革> 現地の説明板によると、斯波武衛家の斯波義廉の屋敷および庭園跡とされる。義廉は 堀越公方の執事である渋川義鏡の子で、将軍・足利義政の不興を買って失脚した斯波 義敏の代わりとして斯波氏の家督を継承した。しかし、義鏡が失脚すると義廉は立場を 失い、復帰を図る義敏との間で対立を生じ、応仁の乱の原因の1つとなった。 応仁元年(1467)に乱が勃発すると、義廉は尾張に下向して一時的に支配権を握った が、義敏・義寛父子の巻き返しに遭って勢力を失い、以後の消息は不明である。斯波氏 は15世紀初頭から16世紀初めにかけて遠江守護であったが、義廉も義敏・義寛父子も 国内に足を踏み入れた記録はない。 <手記> 斯波武衛邸跡は、横地城と藤丸館の間の字「武衛原」にあります。説明板に向かって 左手に土塁と空堀が残り、堀底を進むと上に図示したラインの外郭を辿れます。南東辺 には虎口とみられる開口部があり、郭内ではセンリョウ(千両)が栽培されていました。 武衛邸とはいうものの、上述の通り義廉が遠江に入国した事実はなく、対立する義敏・ 義寛も、歴代遠江守護の武衛家当主も同様と思われます。ただ、横地氏は遠江の名族 なので、守護代・甲斐氏などが名代として在館したことはあるかもしれません。あるいは、 義鏡のもとから斯波氏に入嗣した義廉が、上洛する道中に立ち寄った可能性も考えられ ますが、やはり想像の域を出ません。 おそらく方形を基調とする館城であったと思われるため、藤丸館と共に横地氏の根古屋 ないし初期の屋敷跡と考えるのが妥当ではないでしょうか。 |
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「斯波武衛邸宅跡」標柱と説明板。 | |
北東辺の堀と土塁。 | |
東隅付近の堀と土塁。 | |
南東辺の虎口状開口部。 | |
郭内のようす。 |